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【京王井の頭線】戦前の合併劇に揺れた東京郊外の路線(後編)

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HAYABUSA / PIXTA(ピクスタ)

東京郊外鉄道の工事施工は1930年12月に認可され、1931年6月に着工となった。資金不足のなかで工事は難航したが、1933年8月に渋谷~井の頭公園間が開業した。

この間、東京市は1932年10月1日に東京市制を施行し、荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡など隣接5郡を東京市域に編入した。東京郊外鉄道の沿線も市域に編入されたので、「郊外」という社名が実情にふさわしくなくなった。そこで、1933年1月の臨時株主総会で、東京郊外鉄道は社名を帝都電鉄と改称した。

帝都電鉄の誕生、そして小田急電鉄へ

帝都電鉄の開業後の営業は困難をきわめた。沿線の開発が進まず、輸送人員が伸びなかったからである。そのため、帝都電鉄は減資を断行し、1933年11月に資本金を3800万円から1600万円とした。そして、さらに1934年4月にも減資を実施し、資本金は1280万円となった。

利光鶴松は、帝都電鉄の旧東京山手急行電鉄計画線の建設について、小林一三、五島慶太という私鉄経営の先駆者に相談をした。

小林は箕面有馬電気軌道(のちの阪急電鉄)の創業者で、鉄道経営と沿線での宅地開発は、遊園地・百貨店などの経営を結びつけた私鉄経営者として知られていた。五島は田園都市会社や東京横浜電鉄などの経営者で、やはり多角経営を展開した私鉄経営者として知られていた。

利光は、1939年4月に小林と五島を小田原急行鉄道の取締役に迎えた。しかし、旧東京山手急行電鉄の計画線の建設は進捗しなかった。帝都電鉄はあらゆる努力を傾けたが、1940年4月、ついに起業廃止のやむなきにいたった。そして、翌5月1日、帝都電鉄は小田原急行鉄道に合併され、小田原急行鉄道の資本金は4,280万円となった。

1941年3月1日、鬼怒川水力電気と小田原急行鉄道が合併した。1938年4月に電力国家管理法が公布されて以来、鬼怒川水力電気の営業規模が著しく縮小したからである。存続会社は鬼怒川水力電気であったが、事業は電気鉄道事業が主体となり、社名を小田急電鉄と改称した。

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渋谷と吉祥寺を結ぶ京王井の頭線。営業距離はわずか12.7kmだが沿線の人気は高く、1日に360~370万人ほどの旅客が乗り降りする。この京王井の頭線の成り立ちには1920年代から繰り広げられた東急、小田急など東京郊外の私鉄の合併劇があった。

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