【近畿日本鉄道】小さく生まれ“最長”に育った私鉄の雄(後編)

近鉄の歴史は、大阪電気軌道(大軌)から関西急行鉄道(関急)へと続いていく。その関西急行鉄道の系譜をたどると、①大阪電気軌道・参宮急行電鉄系、②大阪鉄道系、③伊勢電気鉄道系の3つの系統がある。資本統合を繰り返しながら関急、さらに近鉄が成立していく過程を追っていく。

近鉄に息づく15社の系譜

①伊勢神宮「日帰り参拝」構想を掲げた大阪電気軌道・参宮急行電鉄系

大阪電気軌道(大軌)には、1920年代に天理軽便鉄道(1921年)、生駒鋼索鉄道(1922年)、長谷鉄道(1928年)、伊賀電気鉄道(1929年)、吉野鉄道(1929年)などが合流した。また、大軌は大阪から伊勢神宮への「日帰り参拝」の構想をたて、伊勢方面への進出をはかった。そのため、1927年に資本金3000万円の参宮急行電鉄(参急)が設立された。株式総数60万株のうち、32万株を大軌の株主が引き受け、さらに20万株を大軌の傘下にあった大和鉄道の株主が引き受けている。社長には、金森又一郎が就任した。 

参急は、伊勢平野で路線建設を進めていたが、1930年4月に中勢鉄道から久居~中川間の譲渡を受けた。中勢鉄道は、伊勢軽便鉄道(その後、大日本軌道「伊勢支社」)の事業を引き継ぐために1920年2月に設立された会社で、1928年5月には参急の社長の金森が社長となった。

大軌と参急が合併したのは1941年3月であった。存続会社は大軌で、合併と同時に商号を関西急行鉄道とした。参急は、関西急行電鉄および養老電鉄を合併し、伊勢方面・名古屋方面に路線を延ばし、営業キロは305.1㎞となり大軌をしのいでいた。また、参急の資本金も5897万円となり、大軌の6000万円と比肩されるようになっていた。

社長の種田虎雄によれば、「元来参宮急行電鉄は大軌の延長線として建設されるべきものを、当時資金関係等を考慮して大軌の負担を軽くするが為に別会社として創立致した」という事情があったので、合併は「唯時間の問題」であった(社内誌『関急』1941年6月15日)。

②早い時期から大阪都市部への延伸を企図した大阪鉄道系

大阪鉄道は、1896年に設立された河陽鉄道を前身としている。同鉄道は、1898年3月に柏原~道明寺~古市間、4月には古市~富田林間を開業するが、99年5月に新設の河南鉄道に譲渡された。

河南鉄道は1902年12月、長野(現・河内長野)まで路線を延長した。早い時期から大阪都市部への延伸を企図し、1918年には道明寺~大阪天王寺(現・大阪阿部野橋)間の免許を受けた。そして、1919年3月に大阪鉄道に商号を変更し、40年に南大阪電気鉄道を合併した。

大阪鉄道は、1942年7月の大阪鉄道、関急および鉄道省との合併交渉にもとづき、1943年2月に関急に合併された。大阪鉄道の合併によって、関急の営業キロは473.2㎞、資本金は1億3997万円となった。これにともない、大阪鉄道の傍系会社である南和電気鉄道および大鉄百貨店も関急に合併された。南和電気鉄道は、尺土~南和御所町(現・近鉄御所)間の路線をもち、大阪鉄道と実質的に経営が一体化していた。

③名古屋へと鉄路を結んだ伊勢電気鉄道系

1911年11月に資本金50万円で設立された伊勢鉄道は、1926年に商号を変更して伊勢電気鉄道となった。伊勢鉄道は、1915年9月に一身田町(現・高田本山)~白子間の運輸営業を開始し、1917年1月までに津市(のちの部田)~千代崎間を開業していた。そして、伊勢電気鉄道となったのち、1929年に養老電気鉄道を合併し、1936年1月には「関西急行電鉄」が設立された。資本金は320万円であったが、そのうちの316万円は伊勢電気鉄道の現物出資であった。関西急行電鉄は、同年2月に資本金を820万円に増資し、大軌・参急の支援のもとに桑名~関急名古屋間の敷設工事を進め、1938年6月に開業した。開業後、関西急行電鉄は参急に営業管理業務を委託し、1940年1月に参急に合併された。

伊勢志摩方面に鉄路を延ばした

このように関西急行電鉄の系譜は、①大軌・参急系、②大阪鉄道系、③伊勢電気鉄道系の3系統があり、経済学者・宮本又郎によれば、その会社数は大軌・参急系8社、大阪鉄道系2社、伊勢電気鉄道系2社、合計12社であった。さらに1944年4月、信貴山急行電鉄(前身は1928年設立の信貴山電気鉄道)、南和鉄道(1929年設立)が関急に合併した。1944年6月1日に成立した近畿日本鉄道の前身会社は、南海鉄道をのぞくと合計14社、大軌を含めると15社となる(前掲「近鉄100年を顧みて」)。