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【京王井の頭線】戦前の合併劇に揺れた東京郊外の路線(後編)

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HAYABUSA / PIXTA(ピクスタ)

大東急の誕生と解体を経て生まれた京王井の頭線

1938年4月、鉄道会社やバス会社の整理統合を政策的に促進しようという陸上交通事業調整法が公布された。東京郊外の交通事業は、①中央線以南、②中央線と東北線の間、③東北線と常磐線の間、④常磐線以南の4ブロックに分けて調整されることになり、第1ブロックには、小田原急行鉄道、東京横浜電鉄、京浜電気鉄道、京王電気軌道、相模鉄道などがあった。交通事業調整委員会の特別委員でもあった五島慶太は、東京横浜電鉄を中心に京浜電気鉄道、小田原急行鉄道、京王電気軌道を統合するという構想を描いていた。

小田急電鉄は、1942年5月、五島社長のもとで陸上交通事業調整法の趣旨にもとづき、京浜電気鉄道とともに東京横浜電鉄に合併され、資本金2億480万円の東京急行電鉄が誕生した。東京急行電鉄は、1944年5月31日には京王電気鉄道を合併し、資本金は2億2415万円となった。「大東急」が誕生したのである。

“東京の宝塚”京王閣の跡地は現在、東京オーヴァル京王閣(京王閣競輪場)になっている

しかし、「大東急」は、戦後には解体されることになった。

戦後の1948年6月、東京急行電鉄は(新)東京急行電鉄、小田急電鉄、京浜急行電鉄、京王帝都電鉄の電鉄4社と東横百貨店の5社に解体され、ほぼ合併前の姿にもどった。しかし、合併前には小田急電鉄に所属していた旧帝都電鉄線の渋谷~吉祥寺間は小田急電鉄にもどらず、京王帝都電鉄の所属となった。

京王帝都電鉄は、戦前期とは異なって電灯電力供給事業はなく、「東京の宝塚」と言われるほどの人気を博した京王閣も売却されてしまったので、旧京王帝都電鉄の路線のみで営業するのは困難であると判断され、井の頭線が小田急電鉄ではなく京王帝都電鉄の所属となったのである。営業距離わずか12.7kmの京王井の頭線の誕生である。

文:老川 慶喜(跡見学園女子大学教授・立教大学名誉教授)

老川 慶喜 (おいかわ・よしのぶ)

跡見学園女子大学観光コミュニティ学部教授。 1950年、埼玉県生まれ。

立教大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。経済学博士。専門は交通史、鉄道史。 現在、跡見学園女子大学観光コミュニティ学部教授、立教大学名誉教授。1983年、鉄道史学会設立に参加、理事・評議員・会長などを歴任。

近著に、『鉄道と観光の近現代史』 (河出ブックス)、『日本の企業家 5 小林一三 都市型第三次産業の先駆的創造者』 (PHP経営叢書)、『日本鉄道史 大正・昭和戦前篇 - 日露戦争後から敗戦まで』 (中公新書)など


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渋谷と吉祥寺を結ぶ京王井の頭線。営業距離はわずか12.7kmだが沿線の人気は高く、1日に360~370万人ほどの旅客が乗り降りする。この京王井の頭線の成り立ちには1920年代から繰り広げられた東急、小田急など東京郊外の私鉄の合併劇があった。