脱北後、正体を隠して夜間警備員として働く天才数学者イ・ハクソン。名門私立高校の数学の授業についていけず転校を勧められている高校生ハン・ジウ。映画『不思議の国の数学者』は現実に失望しかけた2人が出会い、数学を通して人生を見つめ直していく姿を描く。
天才数学者イ・ハクソンを演じたのは、韓国を代表する俳優として圧倒的な存在感を放つチェ・ミンシク。22年ぶりに北朝鮮の方言を完璧に使いこなし、難しい数学の公式もすらすら暗唱する天才数学者の顔から悩める若者の背中を押す大人の姿まで貫禄の演技で魅せる。
250倍の競争率を勝ち抜いて、ハン・ジウに抜擢されたのがキム・ドンフィ。韓国ドラマ「秘密の森シーズン2」で注目を集めた期待の新星だ。
公開を前にパク・ドンフン監督にインタビューを敢行。作品に対する思いやチェ・ミンシクについて語ってもらった。
──脚本を読んだ感想と演出構想についてお聞かせください。
監督オファーをいただいたときに数学者の話と聞き、理解するのが大変なのではないかと緊張しながらシナリオを読んだのですが、小難しくて堅苦しい話ではなく、心温まる作品だと思いました。
読みながら頭の中に、幼い少年が目標を達成できず、落ち込んでいる光景がまず浮かんできました。そして、年齢を重ねた大人が少年の話を聞いて、アドバイスを伝えたり、問題点を指摘したりする様子も浮かんだのです。この作品は正統派作品になると思い、監督を引き受けました。
──イ・ハクソンは数学において「正解を出すよりも答えを導き出す過程が大事」と言っていました。これは数学だけでなく、生きていく上でも大事なことだと思います。このセリフについて、監督はどう思われますか。
正解を出して成功することも大切ですが、正解を探す過程で正面から向き合わず、要領よく振る舞って成功することは真の幸せではないと思います。
──舞台となった名門私立高校の様子を見ていると、学歴格差が経済格差とリンクしているのを感じました。このことに対して、監督はどう思われますか。
裕福な家庭は教育水準が高く、それは代々受け継がれていく。これは韓国に限らず、世界的な現象なのではないでしょうか。ニュースなどでも報道されているので、よくご存知なのではないかと思いますが、韓国では学歴が非常に重視されます。
裕福な家庭の子どもの方がいわゆる名門大学に入れる確率が高い。その結果、物質的な幸せの確率が上がる。あくまでも確率の問題ですが、それを打破するにはどうしたらいいか。その答えは私にもわかりません。
しかし、出発点で恵まれていた人たちはその環境にあったからこそ成功できたことを心の片隅で意識し、周りの人を尊重し、謙虚な気持ちを持っていてほしいと思っています。
──監督ご自身の学生時代にも熾烈な競争があったのでしょうか。
当時も熾烈な競争がありましたが、私は勉強が好きではなかったので、高校に入ったときにはすでに諦めていました。ただ当時は校内で上位5人くらいに入る優秀な人も勉強するだけでなく、1日1時間くらいは音楽を聴くなど、趣味の時間が持てていたと思います。
今はそういった時間を持つことさえままならない状況になっているような気がします。そう考えると私は運が良かったのかもしれません。先程、勉強を諦めたといいましたが、留学は経験させてもらえましたから。
──ハン・ジウの母親が息子の制服姿を見て喜んでいました。監督は親世代ですが、やはり子どもにいい学校に入ってほしいと思いますか。
ハン・ジウの母親の気持ちは理解できます。豊かな家ほど学歴が高くなり、物質的な幸せを享受できる確率が高くなると先程、申し上げました。それを考えれば、親だったら当然、子どもを名門校に行かせる選択をすると思いますし、その気持ちを私は尊重したいと思います。
──イ・ハクソンを演じたチェ・ミンシクのキャスティングについてお聞かせください。
みなさんはチェ・ミンシク以外の俳優も大勢ご存知だと思いますが、主演クラスの俳優の中で私がイ・ハクソンとして思い浮かべたのはチェ・ミンシクしかいませんでした。
彼がこれまでに演じてきた役、例えば『オールド・ボーイ』のオ・デス、『バトル・オーシャン 海上決戦』イ・スンシン将軍といった猛々しい役とは違い、この作品では警備員の制服を着て、夜遅く煉炭を持って巡回中に高校生と出会い、寂れた場所で数学を教えることになる。今までに見たことのないチェ・ミンシクを見せることができると思ってワクワクしてきました。
幸い快く応じてくださったので、この場を借りて改めて感謝の気持ちを伝えたいと思います。
──チェ・ミンシクだからこその見応えのあるシーンを教えてください。
数学を教えていた部屋でオイラーの公式の話をするシーンで、黒板に向かっていたイ・ハクソンが振り向いて、「(数学って)美しいだろう?」とハン・ジウに言います。あのときの数学が好きでたまらないという思いにあふれた、子どものような表情をするチェ・ミンシクは今まで見たことがありません。
またイ・ハクソンとハン・ジウが2人で食事をする場面がありますが、最後のあたりでイ・ハクソンがハン・ジウに自分の息子を重ねて、愛おしく見つめます。その表情も恐らくこれまでチェ・ミンシクが見せたことがない表情だと思います。チェ・ミンシクの貴重な表情を映画に映し出せたことを誇りに思っています。
段取りの段階でもいろいろ提案してくれ、とてもポジティブになったシーンがたくさんありました。例えば、食事をした後に玄関を出て、ハン・ジウに「帰りなさい」というシーンがあるのですが、そこでの2人の動線はチェ・ミンシクが提案してくれたものです。脚本の解釈が深いのでしょうね。
──『不思議の国の数学者』というちょっと変わったタイトルにはどのような思いが込められているのでしょうか。
イ・ハクソンは学問の自由も求めて脱出しましたが、脱出先では学問がいい大学に入るための手段でしかなかった。人々が自ら限界を決め、たくさんのことを諦める不思議な国という意味を込めています。
『不思議の国の数学者』というタイトルを聞いたときに、「不思議の国のアリス」を思い出す方がいらっしゃるでしょう。原作者のルイス・キャロルは数学者でもある。アリスは猫やウサギに出会い、たくさんの冒険を通じて神秘的な体験をしますが、この作品でも同じようなことが起きます。少し複合的な意味で『不思議の国の数学者』というタイトルにしました。
取材・文:堀木三紀(映画ライター)
<パク・ドンフン監督プロフィール>
短編映画『War Movie』で第5回大韓民国映画大賞短編映画部門最優秀賞、『Enlightenment Film』で第54回アジア太平洋映画祭脚本賞を受賞したパク・ドンフン監督が、本作で初の長編商業映画に挑戦する。
・主な作品歴 映画:『Enlightenment Film』(10)、『Girl by Girl』(07)、『War Movie』(05)、『InBetween』 (02)、『Looking For』(00)、『Mother』(93)、ドラマ:「ゲーム会社の女子社員たち」(16)
『不思議の国の数学者』
<Story>
学問と思想の自由を求めて脱北した天才数学者ハクソン。彼は自分の正体を隠したまま、上位1%の英才が集まる名門私立高校の夜間警備員として生きている。冷たく不愛想なため学生たちから避けられているハクソンはある日、数学が苦手なジウに数学を教えてほしいとせがまれる。正解だけをよしとする世の中でさまよっていたジウに問題を解く「過程」の大切さを教える中で、ハクソンは予期せぬ人生の転換点を迎えることとなる。
<作品データ>
監督:パク・ドンフン
出演:チェ・ミンシク、キム・ドンフィ、パク・ビョンウン、パク・ヘジュン、チョ・ユンソ
配給:クロックワークス
2022年/韓国/117分/シネマスコープ/DCP5.1ch/日本語字幕:朴澤 蓉子/原題:이상한 나라의 수학자/英題:IN OUR PRIME © 2022 showbox and JOYRABBIT INC. ALL RIGHTS RESERVED.
公式サイト:https://klockworx-asia.com/fushigi/
4月28日(金)より シネマート新宿ほかにて 全国ロードショー