商都・米子の大資産家

では、米子(鳥取県)の明治期の金融動向も踏まえておこう。山陰合同銀行の前身である米子銀行は、1894年1月に設立されている。当時、米子には第八十二国立銀行(鳥取県)の米子支店がある程度だったので、地元商工業者にとって私立銀行の設立は強く要望されていた。そこで誕生したのが米子銀行だった。初代頭取は坂口平兵衛という資産家。「商都・米子」の基盤をつくり、特に製糸業の実業家という立場からその基盤を支えた人物として知られている。

島根県の西端・岩見地方にあるごうぎん益田支店。

1890年頃、米子地方を中心に「会見県」の設置運動が起きた。その背景や経緯の詳細は省くが、一言で述べると「鳥取・島根の両県が合併(島根県の岩見地方は広島県に編入)して会見県という県を置く」という運動である。坂口平兵衛は、その運動を主導した人物の一人とされている。

松江銀行が設立された1889年から米子銀行が設立された1894年にかけて、まるで両行の合同を暗示するかのように、島根・鳥取両県が一緒になって新しく県をつくり、“山陰の大阪”とも称されるような商都・米子を県庁に置こう!」という合同の動きがあった。そして、それは「米子市・境港市・松江市などが合併して、道州制を敷いた暁には中海市をつくったらどうか」という現在の動きにもつながっているようだ。

1900年代初頭の日銀松江支店は?

銀行建築を活かしたカラコロ工房の回廊(Siamese / PIXTA)

1890年代から1900年代初頭にかけて、日銀は山陰地方にどう関わっていたのか。日本銀行の設置は、全国の国立銀行の設置より少し遅れたかたちで浸透していった。日銀松江支店が開設されたのは1918年3月である。

当時は木造2階建ての簡素なつくりだった。だが、その後、日銀松江支店は“日銀らしい”おおらかな発展を遂げていく。

1938年3月に既存の松江支店を取り壊し、2代目日銀松江支店が竣工した。現在、その支店はカラコロ工房という工芸館になっている。

カラコロとは「ゲゲゲの鬼太郎」のエンディング曲より古く、松江市民にこよなく愛される明治期の文人・小泉八雲が当時木橋であった松江大橋を渡るときに響く下駄の音をそう表現したことが由来である。カラコロ工房として銀行建築が再オープンしたのは、2代目松江支店が竣工して60年以上経った2000年のこと。その間、ビルオーナーが日銀から県に、そして市へと移り変わっている。