このような議論が11世紀のイベリア半島において、キリスト教社会の主催で開催されたこと自体大きな驚きといえる。もちろん主催者はこの討論によりユダヤ教徒がイエスによる救済に目覚めて、「自発的」にキリスト教に改宗することを期待したはずだ。
しかし、バルセロナ討論は望むような形で終わらなかった。だからといってこの論争をきっかけに後世で起きるような悲惨なユダヤ教徒への大迫害は起きなかった。両者の間には「ギリギリの共存」が辛うじて継続した。なぜか。
当時アラゴン王国は、マジョルカ、バレンシアなどのイスラム勢力地域を「再征服」することを目指しており、この活動にユダヤ教徒との知恵と能力は欠かせなかった。そこで重要だったのは、キリスト教におけるユダヤ教の統治(ガバナンス)方針である。13世紀後半にカスティーリャ王アルフォンソ十世が編纂させた「七部法典」には次のように規定されているという。
「ユダヤ教徒をキリスト教徒に改宗させるにあたり、いかなる暴力も強制も公使されてはならない。キリスト教徒は、聖書の字句と思いやりの言動により彼ら(ユダヤ人)をイエス・キリストの信仰に導くべきである。」(出典:同上)
一方で、七部法典にはユダヤ人とキリスト教徒の共同飲食禁止、共同入浴の禁止などの隔離政策も示されている。12世紀のイベリア半島のキリスト教徒が、レコンキスタという目的のためにユダヤ教徒との「ギリギリの共存」を目指し、葛藤した足跡がここにある。
余談になるが、この七部法典で見られたユダヤ教徒の「自発的改宗」に対するキリスト教徒の期待。ユダヤ教徒という存在の彼らなりの「消化」の仕方は、現代のキリスト教社会においても通じるものがあるように思われる。