前回のコラムでは、ユダヤ教の成立とその特徴(律法主義、メシア信仰、選民思想)について述べた。その後、エルサレムにおけるユダヤ教徒とその「改革派」であるイエス・キリスト派の対立がイエスの磔刑(たっけい)という劇的な結末を迎えたことは広く知られている。

ペトロ宣教の旅とローマでの国教化

イエスの弟子たちは師の磔刑後、その教えを広く普及させるために欧州に渡る。一方、ユダヤ教徒たちはローマ帝国との戦争(ユダヤ戦争)に敗北。ある者は捕虜や奴隷として、ある者は自ら新たな生活の場を求めて欧州に渡った。

異なる背景で欧州に渡ったこの二つのグループは、大陸を舞台に再び対峙していく。だが、その力関係はエルサレムにおける対立の時とは真逆となった。欧州において圧倒的な勢力となったキリスト教徒は、やがて一方的にユダヤ教徒を迫害していくことになるのだ。ここに現代世界まで深く爪痕(つめあと)を残す運命的な歴史の邂逅(かいこう)がある。その足跡を辿っていこう。

まずは「ユダヤ教イエス派」の宣教活動に触れる。イエスの死後、残された使徒たちはイエスの教え、そして「イエスがメシア(救世主)である」という使徒としての信念を広めるために、宣教集団を形成し欧州へ渡る。キリスト教の誕生だ。

もともとユダヤ教のマイノリティー(少数派)だった彼らは、自らの正しさを証明するために、全身全霊でキリスト教をマーケティングし、信者を増やす必要があった。この活動で重要な役割を果たすのは、十二使徒のリーダーでありイエスの一番弟子とされたペトロである。

ペドロが欧州宣教の旅に出たとされるカイザリヤの遺跡(2018年筆者撮影)

ペトロは、ローマにおける宣教で重要な足跡を残した。当時のローマ帝国は多神教国家だったが、ローマ皇帝の権威・神性の維持にとってキリスト教の拡大は脅威だった。

従ってキリスト教は、当初ローマでも激しく弾圧され、ペトロは西暦64年ごろに逆さ磔刑で殉死したとされる。殉死したことで、ペトロもまた「永遠の聖者」となった。

ペトロの殉教の地となったローマのヴァチカンは、やがてキリスト教において最も重要な場所となっていく。ペトロはカトリック教会における初代ローマ教皇として位置づけられた。彼が殉教したとされるヴァチカンの丘には、のちにサン・ピエトロ大聖堂が建てられる。「ピエトロ」は「ペトロ」のイタリア語読みである。(ペトロの正しい殉教の場所については諸説ある)

キリスト教の快進撃はローマ皇帝の権威衰退とともに加速する。皇帝の権威を脅かすものとして弾圧の対象となっていたキリスト教が、臣民の人心を掌握する手段として帝国から重要視されていったのだ。西暦313年、コンスタンティヌス帝が発したミラノ勅令(信仰の自由)により、キリスト教は迫害の圧力から解放される。

そして西暦392年には時のローマ皇帝テオドシウス1世により、キリスト教がローマの国教となったのだ。ローマ兵によるイエスの礫刑から約400年後、イエスの弟子たちが語った一神教は、ついに宗主国ローマの国教となった。多神教国家だったローマは一神教国家となり、他宗教への不寛容が加速されていくことになる。