コーポレートガバナンス(企業統治)とは何か

コーポレートガバナンス(企業統治)に関する議論が盛んだ。日産の最高経営者による不正の話も、日本で進むガバナンスコードの話題も、コーポレートガバナンスの話だ。つい先日は、資本主義の本丸である米国の経営者団体が、株主第一主義を見直し、従業員や地域社会に配慮した経営を目指すという宣言を出した。これもまたコーポレートガバナンスの在り方についての軌道修正の議論だ。 

しかし、このコーポレートガバナンスに関する議論は、なんだかいつも曖昧模糊としており、結局のところ「すべての利害関係者にとって有益な企業となるよう、うまいことやりましょう。」という、優等生的で差し障りのない、しかし毒にも薬にもならない(従って制度改革などに明確に結びつくこともない)結論しか聞こえないように感じる。 

そういう筆者自身もまた、M&Aやバイアウト投資、あるいはベンチャー投資などに関わる中で、結局のところコーポレートガバナンスとは何ぞや、ということについて、もやもやと考えてきた一人だ。本稿では、そういったもやもやの中から、少なくとも現時点で筆者が「こういうことではないか。」と感じることを述べてみたい。なぜならこれを考えることは、日本の企業社会の在り方や、はては日本経済の在り方にもつながっているからだ。 

そもそも課題の設定から間違っている

コーポレートガバナンスの議論を一つの問いに集約するならば、「会社は誰のものか。」という問いになると考える人は多いだろう。しかし、筆者からすればこれがそもそも間違っている。議論の出発点の設定が間違っているのだ。

なにが間違っているのか。

「会社は誰のものか。」と問うならば、答えは「会社は株主のものである。」に決まっている。会社法にそう書いてあるのだ。

会社法308条1項本文に定められた一株1議決権の原則。これこそが株式会社(及び資本主義)の根幹をなす最も重要な基本概念であり、会社の意思決定権(議決権)は持ち分に応じた株主にある。だから、会社は従業員のものだ、とか、地域社会に貢献するためのものだ、などという精神論を展開しても、公的制度論として意味はない。

これは会社法を少しでも学んだ人は必ず知っている基本だが、そもそも、株式会社における「社員」とは株主のことを指す。そして慣用語として使われている社員(従業員)のことは、会社法では「使用人」という。しかし、このような「使用人」というような言葉がなんとも奴隷的で響きが悪いので、明治の初めのころ、使用人のことを「社員」と呼びましょうということになり、この慣習が今でも続いている。

法律に「会社は株主のものである。」と書いてあるのに、「会社は利害関係者みんなものだ。」といったり、「使用人」のことを「社員」と呼んでごまかしたりする発想そのものが、コーポレートガバナンスについて正しく論じることを妨げているのである。

では、コーポレートガバナンスについて正しい議論をするための、正しい課題設定(議論の出発点)はどう設定すべきか。