西郷隆盛や吉田松陰など、幕末維新の偉人たちが夢中で読んでいた愛読書『那波列翁伝』をご存知だろうか。ん? 那波列翁ってもしかして……。
そう、18世紀末に華々しく登場したフランスの英雄、ナポレオンの伝記である。
『グラディエーター』や『オデッセイ』などを手がけた巨匠リドリー・スコット監督による渾身の超大作『ナポレオン』が12月1日(金)より全国公開された。
主人公のナポレオン役を演じるのは、『ジョーカー』でアカデミー賞主演男優賞に輝き、スコット監督と『グラディエーター』以来23年ぶりの再タッグとなったホアキン・フェニックス。
撮影に使用したカメラは、規格外の11台。総勢8000人を超えるエキストラが参加したスペクタクル映像は、映画を観ているというより、歴史の渦中に潜入し、リアルタイムで目撃しているような感覚になる。
「英雄」と称賛される一方で「悪魔」「食人鬼」と恐れられた男の本質に迫るには、覚悟が必要だ。これまでの常識や歴史のバイアスを一旦捨て去り、現場に飛びこむような心意気で、ナポレオンの生きた時代に没入してほしい。
1789年、フランス。
自由と平等を求めた市民によって始まったフランス革命で、国王ルイ16世が処刑された。王妃マリー・アントワネットも、ギロチンによる斬首刑で生涯を終えた。そのようすをじっと見つめていた、一人の若き軍人がいた。コルシカ島に生まれ、出世への野心を抱いていたナポレオン・ボナパルト(ホアキン・フェニックス)である。
革命の混乱に揺れるフランスで、ナポレオンは目覚ましい才能を発揮する。南部の港湾都市・トゥーロンを王党派から奪還し、パリの市街地では王党派の反乱を大胆な戦法で鎮圧。その実力を買われ、軍の総司令官に任命された。
そのころナポレオンには、最愛の女性がいた。没落貴族の出身だが、人目を惹く美貌を持つ華やかな女性・ジョゼフィーヌ(ヴァネッサ・カービー)である。彼女の亡き夫の軍刀を自宅に届けたことをきっかけに親しい関係となり、ほどなく二人は正式な夫婦となった。しかし奔放なジョゼフィーヌとの結婚生活は、次第にねじれ始めていく。
国内の混乱が続く中、天才的な軍事戦略で快進撃を続け、諸外国から国を守ったナポレオンは、35歳の若さでフランス帝国の皇帝に上りつめる。政治家・軍人のトップに立ち、絢爛豪華な城で優雅な生活を送る日々だが、彼の心は満たされないままだった。
やがてナポレオンは戦争にのめり込み、何十万人もの命を奪う戦争を次々と仕掛けていく。敵兵を容赦なく殺し、味方の犠牲も厭わない。フランスを「守る」ための戦いが、いつしか「侵略」、そして「征服」へと向かっていく。
ナポレオンを狂気へ駆り立てたものとは、何だったのか――。
ナポレオンの人生にとって最大のキーパーソンは、最初の妻であるジョゼフィーヌだ。彼女はナポレオンより6歳年上で離婚歴があり、2人の連れ子がいたため、周囲は結婚に懸念を示していた。周りに何を言われようと、ジョゼフィーヌの魅力(というより誘惑)に心を奪われていたナポレオンは反対を押し切り、結婚にこぎつけた。
これまでナポレオンといえば、戦術的な才能と冷酷非道な武勇伝をもつ軍事指導者のイメージで語られることが多かった。しかし一歩戦場の外に出ると、恋人であり、妻であり、皇后でもあるジョゼフィーヌへの強い執着心や依存心が彼の脳内を占拠していたことは、あまり知られていない。
今回、ナポレオンを映画の題材に選んだ理由を、スコット監督はこのように語っている。
「ナポレオンが素晴らしき戦略家であり、優秀かつ直観的、そして無慈悲な政治家であることとは別に、私が魅了されたのは、モスクワを征服しようとしている男が、なぜパリにいる妻の行動に気を揉んでいたのか、ということでした」
器が大きいのか小さいのか。自信家なのか劣等感の塊なのか。陰キャなのか陽キャなのか。
スコット監督は、映画制作にあたり、ナポレオンの人生のあらゆる側面に存在する、狂おしいほどの葛藤や二面性を丁寧に描き、新解釈の姿を浮き彫りにすることを試みたのだ。
幼少期から学業成績が優秀だったナポレオンは、学校ではつねにトップクラスだったという。特に数学が得意で、15歳で入学したパリの陸軍士官学校では、通常4年かかるカリキュラムをわずか11カ月で修了している。
……と聞くと、バリバリの理系脳の持ち主を想像するが、ナポレオンは理系だけでなく、文系のセンスも卓越していた。言葉を巧みに操って、幹部や兵士らの心をつかみ、意のままに動かしていたのだ。
本映画では、驚くほど頻繁にナポレオンが手紙をしたためるシーンが登場する。彼が手紙を送る相手は、政治や軍事関連者だけでなく、そのほとんどは、愛する妻ジョゼフィーヌに宛てたものだ。
「美しきジョゼフィーヌ、君のことばかりを想ってしまう」
「君と離れていることに耐えられなくなっていく」
「部隊の先頭に立っていても、戦地を駆け回っていても、愛する君だけが私の心にあり、私の頭の中を占めている」
……とまあ、こんな具合に、戦地から毎日、何通もの熱烈なラブレターを送るナポレオンに対し、ジョゼフィーヌの反応は冷ややかだった。
彼女は返事を出さないばかりか、「うちの夫、手紙にこんなこと書いてるのよ。おかしいでしょ」と周りの人に手紙の中身を公開し、笑いものにしてしまう。さらに、社交界の花形だった彼女は、魅力的な男性とすぐに関係をもってしまい、妻の浮気を嘆くナポレオンの手紙が、あろうことか新聞に掲載されるという大騒動に……。
ナポレオンが、出世のために必死に勉強し、積み重ねてきた知識や戦術が一切通じない相手、それがジョゼフィーヌだったのである。
ときに愛を囁き、ときに激しく罵り合う、奇妙な愛憎関係を深めていったナポレオンとジョゼフィーヌの生き方は、じつはとても似ている。
ともに田舎の貧しい貴族の家に生まれ、互いを取り巻く権力や役割に縛られながらも、持っている能力を最大限に活用し、自らの居場所を求めて必死に抗い続けた。
ジョゼフィーヌを演じたヴァネッサ・カービーは、この役を演じるのは容易ではなかったと語り、ジョゼフィーヌを「サバイバー」と表現する。
「この役を演じるのは、つらく不安でした。なぜならこれは、非常に多くの女性の物語だからです。彼女はとても強烈なエネルギーを持っていたにもかかわらず、声を上げることは許されていませんでした」
「ナポレオンと結婚した後、ジョゼフィーヌは生き残るために適応し、完全に自分を変えなければならなくなります。彼が望むような、より良い妻になるために」
ナポレオンが生涯で率いた戦いは61に及び、300万人以上の命を奪った。指揮官として兵士とともに前線で戦い続けたナポレオンにとって、死はつねに隣り合わせだった。生きている実感はとうに失われ、自分が世界から切り離されているような感覚を持っていたに違いない。
ナポレオンにとって、唯一生きている意味を感じられるのが、ジョゼフィーヌの存在だった。
華やかで天才的な一面が目立つ一方、ナポレオンもジョゼフィーヌも、ちっぽけで無力な「サバイバー」だったのだ。
文:小川こころ(文筆家/文章スタジオ東京青猫ワークス代表)