混乱を来した名古屋市との交渉

赤を基調とした名鉄は、名古屋・東海地方にとって欠かせない鉄道に

第一次世界大戦後の1920年3月、名古屋電鉄は運賃を4銭均一制にすべく、申請書を提出した。株価は、増資期待と市営化によって売却益が生じるのではないかという予測から漸騰し、1919年には50円払込の旧株が90~100円、25円払込の新株も60円台の高値をつけていた。1920年には、第一次世界大戦後の反動恐慌で市況は暴落したが、名古屋電鉄の株価は80円台を維持していた。

しかし、1920年6月に名古屋電鉄の那古野車庫が全焼し、市内線車両の約半数が消失するとい事件が起った。これを契機に名古屋電鉄市営化の声が一挙に高まり、同年7月には名古屋市会が市営化促進の意見書を可決した。名古屋市長の佐藤幸三郎は、名古屋電鉄に市内線譲渡の要望書を提出し、名古屋電鉄は翌8月にこれを受諾した。

名古屋電鉄と名古屋市との価格交渉は順調に進み、1920年10月には事業譲渡仮契約が締結された。しかし、譲渡交渉は市政の党派抗争に巻き込まれ、混乱を来した。当初、名古屋電鉄は1,600万円を主張していたが、名古屋市の算定額は1,000万円であった。その後、両者が歩み寄り、買収価額は1,250万円となった。