名古屋電鉄市内線の名古屋市への譲渡

名古屋電気鉄道は、明治末期になると市内線の市営化という問題に突き当たることになった。市内線に対する名古屋市民の批判が高まり、運賃の値下げ、始終発時間の延長、線路・車両など設備の改善、周辺の電鉄との連絡を便利にすることなどが要求された。名古屋市の都市化に伴い、市民が名古屋電鉄市内線に対する関心を高めるとともに、名古屋電鉄の高収益に反発していたのである。そうしたなかで、大阪、東京、京都と同じように、名古屋でも市内電車を市営化すべきであるという世論が高まりをみせた。

名古屋電鉄を、とりわけ困らせたのは運賃問題である。名古屋電鉄は市内線の路線延長を繰り返してきたので、1区1銭の区間運賃制では対処できなくなってきた。さりとて、東京や大阪のように均一制に移行することも困難であった。名古屋電鉄市内線の乗客は短距離客が多いので、最低運賃を引き上げる方式で均一制を実施すれば、短距離客が減少して長距離客が急増し、経営が根底から脅かされると考えられたのである。だからといって均一運賃を高額に設定すれば、到底市民の納得を得られない。

名古屋電鉄では、運賃問題を数年間にわたって検討したが、結論を得られなかった。そうしたなかで、1914年9月に県政・市政記者で組織される大三クラブや市民の有志が鶴舞公園で市民大会を開いた。夜になってデモ行進が始まると、そのうちの一部が名古屋電鉄の本社や営業所、運行中の電車を襲うという事件が発生した。

運賃問題はこじれにこじれた。愛知県知事が仲裁に入って4銭均一と最高7銭の両案を示したが、市会はしたがわなかった。名古屋電鉄はいよいよ追い詰められ、1914年10月に市会の主張する2銭・4銭・6銭の3区制に踏み切ることを決定した。