【日本M&A史】戦後の大型合併 新日本製鉄の発足(9)

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日本製鉄・呉製鉄所(広島県呉市)

日本の近代化、工業化、経済発展の歴史は、M&Aの歴史でもあった。このコーナーでは、日本経営史全体に大きなインパクトを与えた企業合併や企業買収を全12回にわたり振り返ってゆく。第9回で取り上げるのは、「戦後の大型合併ー新日本製鉄の発足」である。

「戦後の終わり」を意味した新日鉄の発足
ー資本自由化と国際競争力強化のために

第二次世界大戦後の日本における大型合併について語るとき、多くの人々の頭にまず浮かぶのは、1970(昭和45)年の八幡製鉄と富士製鉄との合併による新日本製鉄(新日鉄)の発足であろう。

終戦後の占領下で遂行された独占禁止政策の一環として、1950年、日本製鉄は八幡製鉄と富士製鉄に分割された。それから20年後に八幡・富士両製鉄は合併し、新日鉄として再スタートをきったのである。

新日鉄の発足は、占領政策による企業分割を終結させるものであり、「戦後の終わり」を意味した。また、それは、資本自由化を受けて日本企業が国際競争力を抜本的に強化しなければならないという時代の要請を反映したものでもあった。これら両面において、新日鉄の発足は、前回取り上げた三菱重工業の再統合(1964年)と相通じる歴史的意義を有していたが、合併の規模は新日鉄の方が大きかった。

大型合併による新日鉄の発足は、世界最大の粗鋼メーカーの出現を意味した。この点については、「67年の粗鋼生産世界1位は米USスチールで八幡、富士はそれぞれ4位と5位。鉄の需要は急増していたとはいえ、国内の大手6社が溶鉱炉を次々建設、製品市況は低迷していた。合併の狙いは粗鋼生産世界一、売上高日本一の巨大企業を作り、業界内で強力なリーダーシップを発揮、過当競争を防ぐことだった」(小松潔「新日鉄誕生(1970年) 鉄は国家だった」『日本経済新聞』2012年5月27日付)、と言われている。

合併の規模が大きかっただけに、その実現は、困難をきわめた。「富士製鉄と八幡製鉄の合併問題は、(中略)多くの波紋を投じた。合併により規模の経済を追求し、企業体質の強化を図り、過当競争を改めたいとする経営者と、国際競争力の強化や経済の効率化、技術水準の向上を唱える通産省の立場が結びついたわけであるが、公正取引委員会や近代経済学者グループからは、独占禁止法の有名無実化や管理価格の形成、さらには競争条件の確保についての問題が指摘された」。「業界1位と2位との合併は、協調体制による安定利潤の確保が目的の1つであり、資源配分の効率性が損なわれるという批判を受けたが、合計13回に及ぶ審判を経て、1970年、両社は合併し、新日本製鉄が成立した」(東野裕人「大型合併の成否」経営史学会編『日本経営史の基礎知識』有斐閣、2004年、331頁)というのが、実情であった。

紆余曲折を経て、新日鉄の発足は実現したが、それが日本社会全体に与えたインパクトは大きかった。この点については、「この独占論争は独禁対策の重要性への認識を広め、またおりからの物価、公害、投機といった一連の事態もあって、あらためて大企業の社会的責任についての自覚をうながした点等において、特筆されなければならない」(吉家清次「大型合併と寡占―その経過と問題点―」中川敬一郎ほか編『近代日本経営史の基礎知識《増補版》』有斐閣、1979年、429頁)、という見方も示されている。

結果的に言えば、新日鉄の発足によっても、懸念されたような「独占の弊害」は顕在化しなかった。「合併後、日本経済は石油危機(73年)などの激変にさらされる。粗鋼生産は73年をピークに頭打ちとなり、新日鉄はシェアを譲りながら業界秩序を守った。合併時36%が(中略)93年には26%になっていた」(前掲「新日鉄誕生(1970年)」)のである。

鉄鋼業界は「2+1」社体制へ

その後、中国・韓国・インドなどの新興国の鉄鋼メーカーが台頭し、国際競争が激しさを増すなかで、日本の鉄鋼メーカーは、さらなる経営統合を迫られることになった。

新日本製鉄は、2012年に住友金属工業と経営統合して新日鉄住金となり、2019年には社名を日本製鉄に改めた。その日本製鉄は、2020年になって、完全子会社だった日鉄日新製鋼(かつて日新製鋼が、2019年に新日鉄住金の完全子会社化した際に改称)を合併した。一方、それ以前の2002年には、川崎製鉄と日本鋼管が経営統合して、JFEホールディングスが発足していた。

これらの結果、「高炉6社」体制と呼ばれていた日本の鉄鋼業界は、日本製鉄、JFEスチールに神戸製鋼を加えた「2+1」社体制に再編されることになった。一応、世界と闘う体制を整えたわけであるが、日本鉄鋼業の苦闘は現在も続いている。

文:橘川 武郎(きっかわ たけお)国際大学大学院国際経営学研究科教授

前回の記事はこちら 三菱重工業の復活 財閥から企業集団へ(8)

橘川 武郎

1951年生まれ。75年東京大学経済学部卒業。83年東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。同年青山学院大学経営学部専任講師、87年同大学助教授。その間ハーバード大学ビジネススクール 客員研究員などを務める。93年東京大学社会科学研究所助教授。96年同大学教授。2007年一橋大学大学院商学研究科教授。15年東京理科大学大学院イノベーション研究科教授。20年より現職。

著書は『日本電力業発展のダイナミズム』(名古屋大学出版会)、『原子力発電をどうするか』(名古屋大学出版会)、『東京電力 失敗の本質』(東洋経済新報社)、『電力改革』(講談社新書)、『出光佐三―黄金の奴隷たるなかれ』(ミネルヴァ書房)、『出光興産の自己革新』 (一橋大学日本企業研究センター研究叢書)、『資源小国のエネルギー産業』(芙蓉書房出版)、『石油産業の真実―大再編時代、何が起こるのか―』 (石油通信社新書)、『ゼロからわかる日本経営史』(日本経済新聞出版)、『イノベーションの歴史』(有斐閣)など。電力会社10社中7社の社史を執筆ないし監修。

総合資源エネルギー調査会委員。経営史学会前会長。


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