【祝優勝】親会社を持たない広島カープ。資金繰りに奔走したその歴史

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※画像はイメージです

■広島東洋カープ(1949年9月設立)

1949年9月 「広島野球倶楽部」が設立され、「広島カープ」誕生。
1955年12月 「広島カープ」を設立。
1968年 東洋工業(現マツダ)の松田恒次が筆頭株主に。「広島東洋カープ」に改称。

プロ野球12球団中、唯一親会社を持たない球団。1949年に「広島野球倶楽部」が設立され、「広島カープ」が誕生。当初から親会社を保有せずに、地域密着で活動してきたことから「市民球団」とも呼ばれている。1950年のシーズンからセ・リーグに参加するが、資金繰りには苦労した。こうした経済的苦境を打破すべく、親会社探しに奔走するも難航。最終的には後援会を発足させ、ファンなどから支援金を集い、1951年末までに当時の金額で約440万円を集めた。この奇跡は「昭和の樽募金」と呼ばれた。

1955年になると広島野球倶楽部の負債が膨れ上がったため、同社を倒産させて「広島カープ」を設立。再スタートを切る。 1968年には、東洋工業(現マツダ)の松田恒次が筆頭株主となり、球団名を「広島東洋カープ」に改称。東洋工業は球団経営に口を出すことなく、あくまでもメインスポンサーという立場を貫く。松田家から歴代オーナーを輩出し、松田家がマツダの経営から退いた後も球団名は変わらず、現在に至る。

■東京ヤクルトスワローズ(1950年1月25日創立)

1950年1月 「国鉄球団」が設立され、1月25日に球団「国鉄スワローズ」が結成。
1962年8月 産経新聞社、フジテレビジョン・ニッポン放送・文化放送のフジサンケイグループと業務提携締結。
1965年5月 サンケイ新聞とフジテレビに球団経営権が譲渡され、「サンケイスワローズ」となる。
1966年1月 「サンケイアトムズ」に改称。
1969年 産経新聞社保有の球団株の一部をヤクルト本社に譲渡。「アトムズ」に球団名を変更する。
1970年1月 球団経営権がヤクルト本社単独となり、「ヤクルトアトムズ」に改称。
1973年12月 「ヤクルトスワローズ」に改称。
2006年1月 「東京ヤクルトスワローズ」に改称。

1950年1月に国鉄の外郭団体、財団法人交通協力会を中心に「国鉄球団」が設立され、1月25日に球団「国鉄スワローズ」が結成される。

1962年8月、球団譲渡を前提に産経新聞社、フジテレビジョン・ニッポン放送・文化放送のフジサンケイグループと業務提携を締結。1965年5月にサンケイ新聞とフジテレビに球団経営権が譲渡され、「サンケイスワローズ」となる。1966年には、手塚治虫原作の「鉄腕アトム」の主人公をキャラクターに採用し、運営会社名、球団名ともに「サンケイアトムズ」に改称。同年、ヤクルト本社が球団経営に参加。1969年、産経新聞社の業績が振るわず、保有株の一部をヤクルト本社に譲渡したことで、実質的な経営権はヤクルト本社へと移り、「アトムズ」に球団名を変更する。1970年には、経営権がヤクルト本社単独となり、「ヤクルトアトムズ」に改称。1973年末には、虫プロダクション倒産に伴い、鉄腕アトムのキャラクターが使用中止となったことを受け、球団運営会社の商号を「ヤクルト球団」、球団名も「ヤクルトスワローズ」に変更した。 2006年に、当時の古田敦也監督が推し進めていた地域密着型の球団を目指す「Fプロジェクト」の一環として、「東京」の地名を冠した現在の「東京ヤクルトスワローズ」となった。

こうして変遷を辿ってみると、パ・リーグほど移り変わりは激しくないが、セ・リーグも球団によってはかなり複雑な歴史を歩んでいることがわかる。そんな中、プロ野球黎明期を牽引してきた巨人、阪神の安定感は際立っている。この2球団の経営が揺らぐ時は、日本のプロ野球界が揺らぐ時でもあるといっても過言ではないだろう。

まとめ:M&A Online編集部


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