【祝優勝】親会社を持たない広島カープ。資金繰りに奔走したその歴史

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昨日、福岡ソフトバンクホークスが2年ぶり8度目の日本一となり、シーズンオフを迎えるプロ野球。今季のペナントレース開幕時にパ・リーグの球団オーナーの変遷をまとめてみたが(【まとめ】時代を映したパ・リーグ球団 オーナー企業の変遷)、今回はセ・リーグの球団オーナーの移り変わりを球団名の変遷とともに見ていく。

■読売ジャイアンツ(1934年12月26日創立)

1934年12月26日 京成電鉄を筆頭株主に「大日本東京野球倶楽部」結成。
1935年2月 第1回アメリカ遠征へ。「東京ジャイアンツ」のチーム名を名乗る。
1936年 チーム名を「東京巨人軍」に改称。
1947年 大日本東京野球倶楽部の臨時株主総会で、商号を読売興業株式会社へ。読売新聞社が経営することとなり、「東京読売巨人軍」に改称。

セパ両リーグで最も古い歴史を持つ球団。

1931年、読売新聞社がアメリカ大リーグ選抜軍を日本に招致し、全日本軍や大学の野球チームと対戦させ、成功を収めた。しかし、翌年文部省より発令された野球統制訓令により、大学チームを対戦相手とすることができなくなり、職業野球チーム結成を目指す。1934年12月26日に、前身となる「大日本東京野球倶楽部」を結成。結成には読売新聞社社長の正力松太郎が中心的役割を果たしたが、当時の大日本東京野球倶楽部の筆頭株主は読売新聞社ではなく、京成電鉄であった。1935年のアメリカ遠征の際に「東京ジャイアンツ」を名乗り、1936年に日本語に訳した「東京巨人軍」に改称。1936年2月5日、現在の日本野球機構にあたる日本職業野球連盟が結成され、その春からプロ野球リーグがスタートする。1944年、戦局悪化となり、野球試合不可能を理由に球団は一時解散するも、1946年にリーグ戦が再開。1947年には、読売新聞社が球団の経営を担うこととなり、「東京巨人軍」から「東京読売巨人軍」となり、現在に至る。

■阪神タイガース(1935年12月10日創立)

1935年12月10日 阪神電気鉄道が「大阪野球倶楽部」を設立。「大阪タイガース」が誕生する。
1940年9月 「大阪タイガース」から「阪神」に改称。
1961年4月 運営会社の商号、球団名を「阪神タイガース」に変更。

職業野球リーグ結成を目指す読売新聞社の呼びかけに応じる形で、1935年12月10日に阪神電気鉄道が「大阪野球倶楽部」を設立し、甲子園球場を本拠地とした球団「大阪タイガース」が発足する。1940年9月、日本野球連盟の方針で敵性語とされた英語の使用を控えるため球団名を「阪神」にするも、戦後に再び「大阪タイガース」に。1961年には、運営会社の商号を「阪神タイガース」とし、球団名も同名に変更した。 記憶に新しいのが、2006年、村上ファンドが阪神株を買い占めたことに端を発する阪神電気鉄道と阪急ホールディングスとの経営統合。これによって阪神電鉄は阪急の完全子会社となり、球団名があわや「阪急タイガース」になるかもという懸念も出たが、球団名は変わらず、経営について阪急が口出しすることもなく、ファンを安心させた。

■中日ドラゴンズ(1936年1月15日創設)

1936年1月15日 新愛知新聞社を親会社に「大日本野球連盟名古屋協会(名古屋軍)」が誕生。
1942年 新愛知新聞社と名古屋新聞社が統合され、中部日本新聞社に。
1944年 理研工業傘下となり、球団名を「産業軍」に改称。
1946年 中部日本新聞社が球団を取り戻し、球団名を「中部日本」に変更。
1947年 中部日本新聞社の杉山虎之助社長の干支が辰年であることから、「中部日本ドラゴンズ」に改称。
1948年 「中日ドラゴンズ」に改称。
1951年 名古屋鉄道(名鉄)が球団経営に参加することになり、球団名を「名古屋ドラゴンズ」に変更。
1954年 名鉄が球団経営から撤退し、再び「中日ドラゴンズ」となる。

1936年1月15日、読売新聞社社長の正力松太郎の働きかけにより、新愛知新聞社を親会社として「大日本野球連盟名古屋協会(名古屋軍)」が誕生。同じころ、新愛知新聞社傘下の國民新聞社でも大東京軍(のちに横浜DeNAベイスターズへと繋がる松竹ロビンスの前身)を結成し、「大日本野球連盟」というプロリーグ結成を画策していたが、実現せずに両球団とも正力が進めていた「日本職業野球連盟」に加盟する。1942年に新愛知新聞社と名古屋新聞社との統合で中部日本新聞社となると、球団経営が見直され、1944年に球団は理研工業(旧理化学研究所が母体)の傘下へ。球団名を「産業軍」に変え、選手は工場で働く傍ら、試合に出場していた。

戦後1946年にプロ野球リーグが再開されると、中部日本新聞社が球団を取り戻し、球団名は「中部日本」に。1947年、当時の中部日本新聞社社長・杉山虎之助の干支が辰年であることから、「中部日本ドラゴンズ」へ改称。翌1948年には「中日ドラゴンズ」となった。1951年には名古屋鉄道(名鉄)が球団経営に加わり、「名古屋ドラゴンズ」に改称。名鉄と中日新聞が隔年で交互に経営をすることになるが、1953年には中日新聞に球団経営が集約されることが決定し、翌1954年に商号を「中部日本野球協会」に、球団名を「中日ドラゴンズ」に戻すこととなった。

■横浜DeNAベイスターズ(1949年11月22日設立)

1949年11月22日 大洋漁業(現マルハニチロ)が「まるは球団」を設立。
1950年3月 「大洋球団」に商号変更し、「大洋ホエールズ」に球団名も改称。
1953年1月 松竹ロビンスと合併。商号を「大洋松竹球団」、球団名を「大洋松竹ロビンス」に変更する。
1954年 球団名を「洋松ロビンス」に改称。12月には、松竹が球団経営から撤退し、「大洋ホエールズ」に戻る。
1976年 横浜スタジアム建設、本拠地移転のため、国土計画(現プリンスホテル)の出資を受ける。
1992年11月 「横浜ベイスターズ」に改称。
2002年1月 マルハからTBSへ球団株譲渡。
2011年12月 筆頭株主がTBSからDeNAとなり、「横浜DeNAベイスターズ」となる。

前身となるのは、林兼商店(後の大洋漁業、現マルハニチロ)の実業団チーム。1949年11月22日に、「まるは球団」を設立し、暫定的に同名の球団名でセ・リーグに加盟する。1950年3月に商号を「大洋球団」に変更し、球団名は「大洋ホエールズ」に。1953年1月には、同じセ・リーグの松竹ロビンスと合併し、商号を「大洋松竹球団」、球団名を「大洋松竹ロビンス」に変更した。翌1954年には球団名を愛称であった「洋松ロビンス」に改称。同年12月に松竹が球団経営から撤退したことを受け、再び「大洋ホエールズ」となり、川崎球場を本拠地として再スタートする。

1976年、本拠地を横浜へ移すことを計画していた球団は、国土計画(現プリンスホテル)の出資を受け、1978年に横浜スタジアムに本拠地を移して、「横浜大洋ホエールズ」に改称した。同年、国土計画がパ・リーグの「クラウンライターライオンズ」(現西武埼玉ライオンズ)を買収。同一企業による複数球団の株式の保有は野球協約に反することになるため、同社が保有する大洋球団の株はニッポン放送とTBS(東京放送)に売却される。

1992年、球団名を「横浜ベイスターズ」に改称。翌年には、親会社の大洋漁業がマルハに改称することに伴い、球団運営会社の商号も同じく「横浜ベイスターズ」変更した。

2001年11月、親会社マルハの経営不振から、ニッポン放送への球団株譲渡が発表されるも、ニッポン放送の関連会社フジテレビジョンがヤクルトの球団株を所有していたことから野球協約に抵触するとして頓挫。一転して、2002年1月に第3位株主のTBSへと譲渡された。 2010年9月、TBSと住生活グループ(現LIXILグループ)との間で売却交渉が行われていると報じられるも、交渉は決裂。2011年12月に、TBSが球団株の大半をDeNAに譲渡し、現在の「横浜DeNAベイスターズ」となった。

■広島東洋カープ(1949年9月設立)

1949年9月 「広島野球倶楽部」が設立され、「広島カープ」誕生。
1955年12月 「広島カープ」を設立。
1968年 東洋工業(現マツダ)の松田恒次が筆頭株主に。「広島東洋カープ」に改称。

プロ野球12球団中、唯一親会社を持たない球団。1949年に「広島野球倶楽部」が設立され、「広島カープ」が誕生。当初から親会社を保有せずに、地域密着で活動してきたことから「市民球団」とも呼ばれている。1950年のシーズンからセ・リーグに参加するが、資金繰りには苦労した。こうした経済的苦境を打破すべく、親会社探しに奔走するも難航。最終的には後援会を発足させ、ファンなどから支援金を集い、1951年末までに当時の金額で約440万円を集めた。この奇跡は「昭和の樽募金」と呼ばれた。

1955年になると広島野球倶楽部の負債が膨れ上がったため、同社を倒産させて「広島カープ」を設立。再スタートを切る。 1968年には、東洋工業(現マツダ)の松田恒次が筆頭株主となり、球団名を「広島東洋カープ」に改称。東洋工業は球団経営に口を出すことなく、あくまでもメインスポンサーという立場を貫く。松田家から歴代オーナーを輩出し、松田家がマツダの経営から退いた後も球団名は変わらず、現在に至る。

■東京ヤクルトスワローズ(1950年1月25日創立)

1950年1月 「国鉄球団」が設立され、1月25日に球団「国鉄スワローズ」が結成。
1962年8月 産経新聞社、フジテレビジョン・ニッポン放送・文化放送のフジサンケイグループと業務提携締結。
1965年5月 サンケイ新聞とフジテレビに球団経営権が譲渡され、「サンケイスワローズ」となる。
1966年1月 「サンケイアトムズ」に改称。
1969年 産経新聞社保有の球団株の一部をヤクルト本社に譲渡。「アトムズ」に球団名を変更する。
1970年1月 球団経営権がヤクルト本社単独となり、「ヤクルトアトムズ」に改称。
1973年12月 「ヤクルトスワローズ」に改称。
2006年1月 「東京ヤクルトスワローズ」に改称。

1950年1月に国鉄の外郭団体、財団法人交通協力会を中心に「国鉄球団」が設立され、1月25日に球団「国鉄スワローズ」が結成される。

1962年8月、球団譲渡を前提に産経新聞社、フジテレビジョン・ニッポン放送・文化放送のフジサンケイグループと業務提携を締結。1965年5月にサンケイ新聞とフジテレビに球団経営権が譲渡され、「サンケイスワローズ」となる。1966年には、手塚治虫原作の「鉄腕アトム」の主人公をキャラクターに採用し、運営会社名、球団名ともに「サンケイアトムズ」に改称。同年、ヤクルト本社が球団経営に参加。1969年、産経新聞社の業績が振るわず、保有株の一部をヤクルト本社に譲渡したことで、実質的な経営権はヤクルト本社へと移り、「アトムズ」に球団名を変更する。1970年には、経営権がヤクルト本社単独となり、「ヤクルトアトムズ」に改称。1973年末には、虫プロダクション倒産に伴い、鉄腕アトムのキャラクターが使用中止となったことを受け、球団運営会社の商号を「ヤクルト球団」、球団名も「ヤクルトスワローズ」に変更した。 2006年に、当時の古田敦也監督が推し進めていた地域密着型の球団を目指す「Fプロジェクト」の一環として、「東京」の地名を冠した現在の「東京ヤクルトスワローズ」となった。

こうして変遷を辿ってみると、パ・リーグほど移り変わりは激しくないが、セ・リーグも球団によってはかなり複雑な歴史を歩んでいることがわかる。そんな中、プロ野球黎明期を牽引してきた巨人、阪神の安定感は際立っている。この2球団の経営が揺らぐ時は、日本のプロ野球界が揺らぐ時でもあるといっても過言ではないだろう。

まとめ:M&A Online編集部