サッカーワールドカップ(W杯)がいよいよ開幕。開催国のロシアは実効支配地が日本本土から3.7km先と、最も近い隣国でもある。両国の交流の歴史は長く、5代将軍・徳川綱吉の治世だった1705年(宝永2年)にピョートル1世が当時の首都サンクトペテルブルクで「日本語学習所」を開設している。
米国の黒船来航よりも75年早い1778年にはロシア皇帝の勅書を携えたイワン・アンチーピンが松前藩を通じて日本との外交樹立を求めた。明治以降は日露戦争やシベリア出兵などの武力衝突もあったが、太平洋戦争では日本政府が旧ソ連を仲介役とした終戦工作を模索するなど両国の外交的な関係は深かった。
そこでロシアと関係の深い日本人3人を紹介する。サッカー観戦の合間に日ロ関係の歴史に思いを致してみてはいかがだろうか。
司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」で知られる高田屋嘉兵衛(たかたや かへえ)は1769年2月7日に淡路島で生まれ、廻船商人として活躍する。箱館(現・北海道函館市)に進出して国後島・択捉島間の航路開設や漁場運営と廻船業を営んでいた嘉兵衛は、ゴローニン事件に巻き込まれた。
1804年9月、長崎に来航したロシア使節レザノフが幕府から通商交渉を拒否された腹いせに、部下のフヴォストフらに命じてサハリンやエトロフの日本人やアイヌ人を襲撃する「文化露寇」が起こり、日露関係は緊張の極致にあった。
7年後の1811年5月、千島海域の地理調査に当たっていた露軍艦ディアナ号のゴローニン艦長らが幕府に捕縛される。その報復として嘉兵衛が1812年9月にディアナ号に拿捕され、カムチャツカ半島のペトロパブロフスク・カムチャツキーへ連行された。
連行先の少年からロシア語を学んだ嘉兵衛は、ディアナ号副艦長でカムチャツカの長官となったリコルドと直接交渉する。リコルドに交渉を任された嘉兵衛は幕府側に事件のロシア側の真意を説明して交渉のきっかけを作り、日露間を往復しながら会談の段取りを整えた。
その頃には幕府の外交方針もロシアとの紛争不拡大へ転換しており、「文化露寇はロシア皇帝の命令に基づくものではないことを公的に証明すれば、ゴローニンを釈放する」と回答。リコルドがこれに応じて、1813年9月に幕府はゴローニンは釈放。嘉兵衛はディアナ号で箱館を離れるゴローニンを見送り、事件は無事解決したかのようにみえた。
ところが当の嘉兵衛が海外渡航を固く禁じていた幕府から密出国の罪人扱いされて、箱館・称名寺で監視を受ける身に。1814年3月にようやく「出国したのは自らの意思ではなく、ロシア船に拿捕されたため」と認められ、無罪が確定した。同5月に幕府からゴローニン事件解決の功労金として金5両を下賜され、1826年には故郷の淡路島を治めていた徳島藩主・蜂須賀治昭から小高取格(300石)の藩士待遇に処遇される。
しかし、高田屋には過酷な運命が待っていた。実は嘉兵衛はゴローニン事件の交渉に併せて、海上で遭遇した際に高田屋の船が店印の小旗を、ロシア船が赤旗をそれぞれ掲げて確認し合うことでトラブルを回避する「旗合わせ」をロシア側と取り決めていたのだ。1827年に嘉兵衛が亡くなると、「旗合わせ」の存在を幕府に隠していたことが露見。1833年に資産没収のうえ箱館からも追放され、北方貿易で巨万の財をなした高田屋は没落する。明治維新の35年前の出来事だ。
もし高田屋が明治まで生き残ったならば、北海道を地盤とする財閥が成立し、民間主導による日露交流も盛んになっていたことだろう。北海道開拓はスピードアップし、日露戦争を回避できた可能性もある。高田屋が健在であれば、日本の近代史は大きく変わっていたかもしれない。
高田屋は明治を迎えられなかったが、ロシアとの平和的な紛争解決や箱館繁栄の礎を作った嘉兵衛の人気は衰えなかった。1911年に北方開拓の功績で正五位の冠位を追贈、1938年には北海道神社(札幌市中央区)の境内にある開拓神社で、間宮林蔵や伊能忠敬らとともに祭神として祀られている。
函館市には高田屋造船所跡地に明治になって建てられたコンブ倉庫を改修した「箱館高田屋嘉兵衛資料館」がある。高田屋の半纏(はんてん)や、嘉兵衛が箱館に乗り込んだ北前船「辰悦丸」の復元模型、当時の箱館を描いた巨大な絵図などを展示している。函館市電・十字街電停で下車し、徒歩5分。入場料は大人(高校生以上)300円。
生誕地の淡路島にも「高田屋顕彰館・歴史文化資料館」(兵庫県洲本市)がある。こちらは神戸三宮バスターミナルから「高田屋嘉兵衛公園行き」の直通バスで、所要時間1時間30分。入場料は大人500円、大学・高校生300円。