甲府・東京間を鉄路が結び、量産体制に

当時、ワイン、葡萄の一大消費地であった東京への輸送に鉄道はなく、特に大量輸送ともなると、山梨の産品は富士川を下り駿河湾から東京に運ぶ海運に頼っていた。「笹子峠を越える鉄道が敷設できれば、もっと早く、大量に葡萄やワインなどの商品を東京に送り込める」。商才に長けた宮崎には、そんな野心もあったのだろう。

その願いが叶い、1903年に東京・甲府間に中央線が開通した。そして、直後の1904年、宮崎は勝沼に第2醸造所を建設し、量産体制を敷いた。

勝沼に設けた葡萄園をより大規模に、より消費者に認知される地にしなければ、鮮度を維持した葡萄、ワインの量産体制も築けない。そう思ったであろう宮崎は、葡萄園・勝沼の観光事業にも乗り出した。

宮光園の2階展示室。国産ワインの歴史を紹介する

葡萄園で葡萄狩りを楽しみ、生葡萄、ワインを楽しみ、勝沼近郊の一大温泉郷・石和に宿泊する。いま考えれば定番の「山梨ぶどう狩り体験1泊ツアー」だが、鉄路が開かれた当初は、夢のような観光事業だったはずだ。「ぜひ天皇家の皆さまにもお越しいただきたい。それが実現すれば、勝沼の葡萄産業は山梨県の主要産業に踊り出る!」。そんな野心もあったのではないだろうか。

1931年、甲斐産商店は自社ワインのブランド名、大黒葡萄酒に社名を変更した。そして、日本は第2次大戦に突入する。軍は勝沼に日本連抽という会社をつくった。葡萄酒に石灰を加えて結晶化させた酒石酸をつくる会社である。酒石酸は音波探信儀、いわゆる電波兵器などに活用できる。葡萄酒を軍事利用できるという思惑があったのだろう。この日本連抽という会社が戦後、日清醸造となった。