東京山手急行電鉄と渋谷急行電鉄の合併

1929年から30年にかけて日本経済は深刻な不況に陥った。こうしたなかで、1928年10月に電気事業経営の許可を受けた東京山手急行電鉄は路線建設の準備に取りかかったが、建設資金の調達が思うように進まなかった。渋谷急行電鉄も資金調達が困難となり、路線建設が暗礁に乗り上げた。

渋谷急行電鉄は、会社を存続させることさえ難しくなり、東京横浜電鉄の五島慶太、鬼怒川水力電気の利光鶴松に相談をした。その結果、鬼怒川水力電気に過半数の株式を譲渡し、経営を委ねることになった。利光は、1929年7月に臨時株主総会を開き、自ら取締役社長に就任するとともに、利光學一を副社長に据えるなど、渋谷急行電鉄の経営陣を一新した。

利光學一は、鶴松の叔父品吉の養嗣子であった。鶴松は大分県大分郡稙田村の出身であったが、叔父の品吉とともに上京し、明治法律学校(現・明治大学)に入学して苦学力行の末、代言人(弁護士)の資格を取得した。明治法理学校の学資を援助してくれたのが、八王子警察署に奉職した叔父の品吉だったのである。もっとも、代言人となった鶴松は、今度は叔父の品吉の学資を援助し、品吉も代言人の資格を得て、のちに判事となった。利光は、青春時代に苦楽をともにした叔父品吉の養嗣子であった學一をかわいがり、のちには小田急電鉄の社長にも推挙している。