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「何のために学ぶのか」自立への一歩 ~津田梅子(その4)

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日本へ帰国

現代とは違って明治期の子女の精神年齢はだいぶ実年齢より高かったようです。1882年11月梅子17歳と山川捨松22歳は留学を終えて帰国し、さらに学び国家の今後に役立つ働きをして恩に報いようと誓い合っています。しかし、当時は女子が高等教育を受ける機会は無いに等しく、まして梅子は初等・中等教育の学齢期をアメリカで過ごしたためほとんど日本語を忘れている状態で、教育関係の仕事につくことは叶いませんでした。

帰国時は適齢期にあり周囲は結婚を勧めますが、不自由な結婚生活に入るより仕事を得て自立することを望んだ梅子は、生涯独身を通すことを覚悟してすべての縁談を断ります。

挫折からの出発

1885年伊藤博文の推薦で華族女学校の英語教師の職を得るものの、日米のカルチャーギャップに加え、日本の良妻賢母育成に重きを置いた教育方針に馴染めず梅子は苦悩します。

その頃来日していたアメリカの友人アリス・メイベル・ベーコンに勧められて再留学を決意、3年余り務めた英語教師の職を辞します。が、再留学先の選定・資金の準備など多くの課題に梅子は窮地に立ちます。話を聞いたモーリス夫人は懇意のブリンマー大学学長に受け入れを要請、快諾を得ただけでなく授業料免除・宿舎の無償提供という厚遇でした。その上、華族女学校からは同校の教授として俸給を得ながらの留学が許可されたのです。

再留学の成果

1889年7月再渡米、ブリンマー大学では「生物学」を専攻します。梅子は3年間、水を得た魚のように勉学・研究に専心し、1892年の冬には研究成果を挙げました。指導教官のトーマス・ハント・モーガン博士(ノーベル生理学・医学賞受賞者)の共同執筆者としてイギリスの学術誌「Quarterly Journal of Microscopic Science」に『蛙の卵の定位』を発表したのです。欧米の学術誌に論文が掲載された最初の日本女性でした。

友人の教育研究者アリス・ベーコンは、後にアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトの著名な日本文化研究『菊と刀』の参考文献となる、当時の日本女性の状況をありのままに書いた『明治日本の女たち Japanese girls and women』の出版準備中でした。梅子はそれを手伝う内に触発され、恵まれた環境で勉学に励めた自身に比べ、日本の女性が置かれている現状はどうだろうと、女性の自立に対して深く関心をもち始めます。第一歩として、身分や貧富に関わらず勉学の意思がある女性のための「日米婦人米国奨学金」を設立します。

モーガン博士から科学者として高い評価を受けた梅子は、研究の継続を提案されますが辞退して日本へ帰ることを選びます。あくまでも教師として働くことを望んでいた梅子は、帰国までの半年間、ペスタロッチ教育理論の中心的学府、ニューヨーク州のオスウィーゴ師範学校で「教育・教授法」を学んでいます。教育実践家であり孤児院の学長でもあったスイスの思想家ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチは、教育による貧困からの脱出、教育を人格形成につなげる人間主義教育を提唱し、現代につながる「近代教育の父」と称されています。

女性の人間的自立を教育目標にしていた梅子に、大きな影響を及ぼしたことは想像に難くありません。

株式会社インソース より

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