延岡で生まれ、宮崎で育つ

実は明治期から昭和初期まで、宮崎より延岡のほうが人口は多かった。また、金融史において、宮崎県内に国立銀行が設立されたのは、宮崎ではなく延岡であった。明治12年に設立された第百四十五国立銀行である(もう1つ、上記の日向中央銀行の源流である第百四十四国立銀行が現日南市の城下町・飫肥にあった)。

宮崎市の中心街・橘通( Corailile /pixta)

第百四十五国立銀行はその後、明治32年に延岡銀行と改称し、昭和8年には昭和7年創立の日向興業銀行に吸収合併されている。その日向興業銀行は昭和18年に日向貯蓄銀行と合併し、昭和37年に宮崎銀行となった。すなわち、宮崎銀行の“分家筋”もたどっていけば、県北の延岡にあったということができなくはない。

地方銀行はその地域の都市商業の象徴ということもできるだろう。その観点からみれば、昭和初期において、恐慌のなかで宮崎県の金融の中心は延岡から宮崎に商業集積の移行とともに移動・集約していったということにもなる。

延岡、日窒、旭化成…

その延岡の繁栄を支えてきたのは旭化成、かつての日本窒素である。日本窒素は昭和初期、日窒コンツェルンという一大企業群を組織した。日窒コンツェルンは当時、国内に勃興した新興財閥の一つで、第2次大戦までは日本最大の化学工業コンツェルンであった。だが、戦後、日本窒素はその巨大な企業群である日窒コンツェルンが解体されるとともに、旭化成として再出発した。

旭化成はその後も日本の産業界、特に繊維業界に大きな影響力をもってきた。そして、スポーツ界では、宗兄弟、児玉泰介、千葉真子をはじめ日本を代表するマラソン選手を多数輩出してきた。宮崎銀行女子陸上部の創部も、企業城下町・延岡があったからこそ、といえるのかもしれない。

文:M&A Online編集部