“チーム川上”を支えたもう1人の人物

岩の原葡萄園が株式会社として法人化したのは、創業から40年以上経った1934年のこと。このときは、川上善兵衛が単独で出資したのではなく、共同出資者がいた。寿屋(現サントリー)の創業者、鳥井信治郎である。鳥井信治郎は川上善兵衛らと協力し、1936年に寿屋山梨農場を再興し、現在の登美の丘ワイナリーへと発展させた。

そして現在は、岩の原葡萄園はサントリーの子会社という位置づけになっている(岩の原葡萄園は非上場なので正確な出資比率等は公表されておらず、その意味では、岩の原葡萄園はサントリーの関連会社・出資法人の1つということになるかもしれない)。

サントリーがワイン醸造を手がけようとしたとき、川上善兵衛は協力を請われたという。まさに国産ワインの揺籃期、先達たちは誰が「父」であるかに関係なく、教え・教えられ、ともに明治期のワイン産業を支え、育てていたのだ。

サントリーから見たワインづくりの歴史を見ておこう。岩の原葡萄園が創業した9年後の1899年、鳥井信治郎は寿屋を創業した。そして川上善兵衛、また甲州ワインの先達とともに研究・視察・開発を重ね、1907年に『赤玉ポートワイン』を発売する。そのうえで、1934年に寿屋は「岩の原葡萄園」に資本参加した。“チーム鳥井・川上”は1935年に山梨県の登美高原の農場を視察し、翌1936年に「寿屋山梨農場」として「登美農場」の経営を継承した。

日本のワイナリーで初めて欧州系ワイン用ぶどう品種への本格的な取組みを開始したのは、戦後、1950年代のこと。1970年には寿屋山梨農場を「サントリー山梨ワイナリー」に名称変更している。そして、2001年に「サントリー登美の丘ワイナリー」に名称変更した。

サントリーは欧州系ワイン用ぶどう品種で市場を創造・拡大した。一方の岩の原葡萄園は国産ぶどう品種でのワインづくりに特化した。だが、戦渦に揉まれ、善兵衛が経営より研究に没頭したこともあって、岩の原葡萄園の経営は傾いた。

経営状況だけを見れば、サントリーは岩の原葡萄園を売却し、見捨ててもいい状況だったかもしれない。しかし、岩の原葡萄園の経営が荒廃したといっても、サントリーが寿屋として創業した頃の“一大恩人”が育てたワイン醸造会社だ。