埼玉県には、渋沢家とともに日本を代表するもう1つの名家がある。諸井家。なかでもその11代当主で秩父セメントの創業者である諸井恒平は「セメント王」と呼ばれ、大正・昭和の日本経済の発展に寄与した人物として知られている。
諸井恒平は1862年、深谷に隣接する現在の埼玉県本庄市に生まれた。渋沢栄一の親戚筋にあたり、県北の地場産業である養蚕に従事したのち日本煉瓦製造に入社、専務取締役として経営の舵をとり、東京毛織、武相水電、北陸水電など地元産業や電力という基幹産業の経営に携わる。1897年には秩父鉄道の設立にも加わっている。秩父の武甲山の石灰岩に目をつけ秩父セメントを設立したのは1923年、関東大震災の起こった年のことだ。
セメント業は大震災後に激増するセメント需要に支えられ、秩父セメントを率いる諸井は秩父・熊谷・深谷・本庄などの県北地域から関東全域にわたる地歩を、まさにセメントで固めるように強固にしていった。
現在、秩父セメントはいくつかのM&Aを経て太平洋セメントとなっているが、需要減により低迷した日本煉瓦製造をM&Aにより“引き取った”のも秩父セメントである。だが、秩父セメント(太平洋セメント)の連結子会社となった日本煉瓦製造は2006年、120年の歴史に幕を閉じる。
時代の盛衰といえばそれまでだが、その終結は、隆盛を極めたのちに老いた父(日本煉瓦製造)に、「あなたの時代は終わった」と引導を渡した子(秩父セメント)の姿を感じさせた。
A4で1枚のリリースがある。2006年6月に発表された、太平洋セメントによる「連結子会社(日本煉瓦製造)の解散・清算に関するお知らせ」。
解散・清算の理由は「さまざまな経営改善策を実施しても、需要減少により再建の見込みが立たないこと」だった。清算直前の日本煉瓦製造の売上高は9億7800万円、総資産は14億5300万円。当時、太平洋セメントは日本煉瓦製造の株式の31.16%を保有し、他の太平洋セメントの連結子会社が45.48%を保有していた。常套句ではあるものの、「連結及び単体業績への影響は軽微」という言葉に、一抹の乾いた淋しさを感じた人もいただろう。
2019年5月現在、日本煉瓦製造の産業遺産は、数多くの煉瓦づくりの建造物を残し「煉瓦の町」ともいわれる深谷市の運営・管理のもとで修復が進んでいる。煉瓦資料館となった旧事務所には、膨大な修復関連資料が保存されている。「修復を前に遺構を調査して初めて浮き彫りになった事実もあります」(煉瓦資料館)。
ホフマン輪窯が日本で修復されるのは栃木県野木町の窯に続いて2例目だという。果たして、どんな姿で修復されるのか。現在、ホフマン輪窯6号窯は立入り禁止となっている。
文:M&A online編集部
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