日本煉瓦製造の生産した煉瓦を使用した建造物には、東京駅をはじめ、旧司法省本館、碓井峠第3橋梁、迎賓館、日本銀行旧館、東京大学、旧醸造試験場(現酒類総合研究所)などがある。
日本煉瓦製造はその発展過程において、民間企業として日本初の専用鉄道線を開通させた。創業からしばらくは工場敷地を流れる小山川から、利根川に出て海運で煉瓦を都心に運んでいた。だが、利根川の水運は河川の氾濫や洪水などにより不安定でもある。さらに、時代は鉄道輸送にとって代わるようになってきた。そこで、1895年に日本煉瓦製造は、工場と深谷駅との間、4キロほどを鉄道で結んだ。
その鉄道が使われなくなったのは1975年頃のこと。蒸気機関車からディーゼル列車へ、80年の長きにわたり、大量の煉瓦が鉄路で都心に運ばれていた。現在は鉄道の橋梁の一部が保存され、鉄路跡は遊歩道となっている。
日本煉瓦製造の産業遺産は、鉄道橋梁の一部のほか、旧事務所、窯、変電室などが現存する。旧事務所は1888年に建てられ、現在は煉瓦資料館として煉瓦関連資料の保存や展示を行っている。もともとは、煉瓦製造の指導にあたったチーゼというドイツ人煉瓦技師の居宅を兼ねていた建造物だ。その旧事務所の傍には小さな変電室がある。蒸気機関から電力へ切り替わる時期、1906年に市内で最初に変電設備を置いた。
現存する窯はホフマン窯6号輪窯。ホフマン窯とはドイツ人技師フリードリヒ・ホフマンが考案した窯。ちなみにホフマン輪窯は国内で4基(深谷市、栃木県野木町、京都府舞鶴市、滋賀県近江八幡市)が現存している。日本で最初のホフマン輪窯は明治初期、銀座煉瓦街の建設のために小菅(東京都葛飾区)につくられたものだという。
日本煉瓦製造のホフマン窯6号輪窯の建造は1907年。窯は長さ56.6メートル、幅20メートル、高さ3.3メートルあり、「バスが何台も停車できそうな広さです」(煉瓦資料館)とのこと。もともとの輪窯は3階建ての木造覆屋で覆われ、2階は投炭と乾燥、3階は乾燥に使われていた。内部を18の部屋に分け、窯詰・予熱・焼成・冷却・窯出しの工程を約半月かけて窯を一周させて月産65万個の煉瓦を次々と産出していた。
煉瓦建築は明治期、まさに近代化・西洋建築の象徴のように人々の目に映った。だが、1923年の関東大震災以降、日本の煉瓦建築は急速にその需要を減らしていった。大震災で木造家屋が焼失した焼け野原で、一際うずたかく積まれて残る煉瓦の瓦礫。その様相を見ると、多くの人は煉瓦の時代はやがて終焉を迎え、鉄とセメントの時代がやってくることを実感しただろう。
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