関東大震災後の東京と郊外住宅地を“電車”で結ぶ

武蔵野軽便鉄道は、1911年10月に資本金を100万円とし、12年12月に路線変更願を提出し、東京側の起点を巣鴨から池袋に変更した。1913年4月に着工し、2年後の15年4月に池袋~飯能間の全線約44.2kmを開業した。中間には、東長崎、練馬、石神井(現・石神井公園)、保谷、東久留米、所沢、西所沢、三ケ島村(現・狭山ケ丘)、豊岡町(現・入間市)、仏子など10駅が置かれた。

武蔵野鉄道は、砂利や木材の輸送など貨物輸送にも特徴を見出すことができるが、全体としてみれば旅客輸送の増加が著しかった。旅客収入の増加は、「主として所沢および東京に接近せる郊外住宅地の発達によるもの」(『東洋経済新報』1924年6月14日)であったとされているが、とりわけ1923年9月の関東大震災後は池袋から所沢にいたる沿線の住宅地化にともなって旅客収入が著しく増加し、26年以降は旅客収入が運輸収入の70%以上を占めるまでになった。

そのため、武蔵野鉄道は飯能~池袋間の輸送時間の短縮を目的に、1920年4月には早くも電化に乗り出した。この電化は、石炭価格高騰への対応でもあったが、1922年11月から池袋~所沢間の電車運転が開始された。引きつづき所沢~飯能間の電化工事が進められ、1925年12月に全線で電車運転が開始された。

株主の利害が対立。その後、鉄道支配に乗り出した堤康次郎

武蔵野鉄道は、1927年10月に練馬~豊島園間の支線、29年5月に所沢~村山公園間の支線を敷設したが、同年9月には大株主であった浅野セメントの要請で、飯能~吾野間の延長線を開業した。当時、武蔵野鉄道の資本系統は、社長の石川幾太郎、専務取締役の小林三男、取締役の高橋源太郎、小能五郎、金子忠五郎らの地元派、大日本製糖社長藤山雷太の息子の藤山愛一郎、松本信太郎、小倉敬止らの藤山派、阿部吾一らの浅野派からなり、経営は小林三男らの地元派によって担われていた。だが、その経営はきわめてずさんであった。

浅野派は、東京や川崎のセメント工場の原料供給地であった青梅地方の石灰石が乏しくなりかけていたので、武蔵野鉄道が所有する吾野の原石山を手に入れようと画策していた。これをみた藤山派が、持株をすべて浅野派に譲渡し、取締役を辞任した。浅野セメントの武蔵野鉄道支配が実現し、1930年5月、同鉄道の社長に遠藤柳作、専務取締役に藤田秀雄、常務取締役に白石多士郎などの浅野派の経営陣が就任し、経営の刷新と業績の回復をはかった。遠藤は、さまざまな努力を試みた末、武蔵野鉄道を救済するには減資による不良資産の整理以外に方法はないという結論に達したが、結局実現せず、浅野派は連袂辞職することになった。

浅野派が、武蔵野鉄道の経営を放棄すると、堤康次郎が武蔵野鉄道の支配に乗り出した。堤はすでに大泉学園都市の建設に着手し、箱根土地の関係者を株主に送り込んでいたが、1931年7月に払込失権株3万2603株が競売に付されるとみずから競落し、武蔵野鉄道の大株主となった。

しかし、この頃の武蔵野鉄道の経営は著しく悪化しており、営業収支は毎期赤字であった。堤は、みずからの配下の者を経営陣として送り込んで、武蔵野鉄道の経営再建に乗り出した。1938年9月には、減資・無担保債務および物上担保付社債の整理を断行し、ともかくも成功を収めた。