交通調整と堤康次郎の旧西武鉄道支配

いまは首都圏北西部の重要な通勤路線

1938年8月、東京市および東京市周辺の交通機関の競合を調整すべく、交通事業調整委員会が発足した。同委員会の会長には、衆議院議員で拓務大臣、逓信大臣、鉄道大臣などを歴任した永井柳太郎が就任し、堤康次郎も委員として参加した。

東京市などは調整地域の一元的統合を主張したが、堤は反対し、地域別の小統合を主張した。委員会では、1940年末に堤らの主張が受け入れられ、中央本線以南、中央本線と東北本線の間、常磐線の東南(2ブロック)の計4ブロックに分けて統合が進められることになった。

中央本線と東北本線との間の第2ブロックには、旧西武鉄道、武蔵野鉄道、東武鉄道東上線の3私鉄があった。堤康次郎は武蔵野鉄道を支配下に置いていたが、旧西武鉄道を支配しうるほどの株式は所有していなかった。1940年5月末の旧西武鉄道の大株主は、東武証券(東武鉄道系、持株比率21.0%)と大日本電力(京王電軌・穴水熊雄系、同10.7%)であった。その後、穴水は1942年7月に5万6000株を東武鉄道に譲渡したので、旧西武鉄道は東武鉄道の支配下に入った。

しかし、堤康次郎はこれに異を唱え、東武鉄道から7万266株を譲り受け、持株比率を45%とし、旧西武鉄道を支配するにいたった(「武蔵野鉄道と西武鉄道の合併問題」『ダイヤモンド』1943年1月11日)。さらに、1943年1月に常務取締役に配下の小島正治郎、取締役に同じく配下の中島陟と永井外吉を送り込み、同年6月にはみずから取締役社長に就任した。

東武鉄道は、交通調整では本線が東北本線と常磐線の間の第3ブロックに属していたため、そちらを優先せざるを得なかったので、第2ブロックでは譲歩したのではないかと思われる。

戦後に持ち越された武蔵野鉄道と旧西武鉄道の合併

旧西武鉄道を支配下に置いた堤康次郎は、武蔵野鉄道と旧西武鉄道との合併を推進し、両社は1945年2月に合併の仮契約を結んでいた。だが、両社の合併はさまざまな事情から戦後にもちこされた。堤は1944年6月に食糧増産株式会社を設立し、多摩湖周辺や武蔵野鉄道および旧西武鉄道の沿線に約2000haの農地を買収し、東京都民向けの野菜の生産を行なった。武蔵野鉄道と旧西武鉄道は「糞尿電車」を走らせ、東京都民の糞尿を沿線の農地に運んだ。

敗戦後の1945年9月、武蔵野鉄道は旧西武鉄道および食糧増産を合併し、西武農業鉄道と名乗った。そして、西武農業鉄道は、翌1946年11月には「農業」の2文字を取って社名を西武鉄道とした。西武鉄道の成立である。

文:老川 慶喜(跡見学園女子大学教授・立教大学名誉教授)