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西武鉄道の成立 武蔵野の台地に王国を築いた堤康次郎(後編)

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堤の郷里・滋賀の大津市歴史博物館にある像

交通調整と堤康次郎の旧西武鉄道支配

いまは首都圏北西部の重要な通勤路線

1938年8月、東京市および東京市周辺の交通機関の競合を調整すべく、交通事業調整委員会が発足した。同委員会の会長には、衆議院議員で拓務大臣、逓信大臣、鉄道大臣などを歴任した永井柳太郎が就任し、堤康次郎も委員として参加した。

東京市などは調整地域の一元的統合を主張したが、堤は反対し、地域別の小統合を主張した。委員会では、1940年末に堤らの主張が受け入れられ、中央本線以南、中央本線と東北本線の間、常磐線の東南(2ブロック)の計4ブロックに分けて統合が進められることになった...

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