西郷どん 東京都内ゆかりの地3選

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寛永寺…西郷どんも死を覚悟した上野戦争の舞台

 西郷どんの銅像でおなじみの上野公園。その片隅にある寛永寺(東京都台東区)だが、幕末には現在の上野公園のほぼ全域がこの寺の境内だったというから驚く。それもそのはず、寛永寺は徳川幕府3代将軍家光の葬儀が執り行われて以来、増上寺(東京都港区)と並ぶ徳川家の菩提寺になったからだ。当然、幕府とのつながりも深かった。

明治12年(1879年)に移築・再建された現在の寛永寺根本中堂
現在の寛永寺(根本中堂)

 今から150年前の1868年1月に鳥羽・伏見の戦いで敗走した最後の将軍慶喜は、江戸へ戻ると寛永寺大滋院で謹慎する。幕臣や慶喜を将軍に送り出した一橋家の家臣たちは、江戸市中と将軍警護の名目で彰義隊を結成して寛永寺に本営を置いた。しかし、慶喜が新たな謹慎先として水戸へ移ると、抗戦派が台頭。これに新選組残党などの幕府側武装勢力が加わり、江戸城(現・皇居)に入った新政府軍と対峙する。

 いわば薩長土肥のM&Aで誕生した新政府軍は、長州藩士の大村益次郎を司令官として彰義隊の排除に乗り出す。5月15日に新政府軍が宣戦布告し、午前7時頃に両軍が武力衝突した。正門の黒門口(現在の広小路付近)は寛永寺の真正面だけに激戦地となった。薩摩藩は上野戦争に消極的だったにもかかわらず、大村に黒門口攻めを命じられている。さすがの西郷も「薩摩藩兵を見殺しになさる気か?」と驚いたが、大村は静かに扇子を開閉しながら「そうです」と答えたというエピソードが残っている。

 新政府軍はスナイドル銃やアームストロング砲などの最新兵器を駆使して、その日の午後5時には彰義隊を一掃。大村は戦闘が江戸市中に拡大するのを防ぐため、戦場後方の根岸には兵を配置せず敵の退路として残した。大村の想定通り彰義隊の敗残兵は根岸方面に逃走し、江戸市中は戦火を免れる。西郷と勝の江戸無血開城は無駄にならなかったのだ。西郷は大村の兵学知識と運用能力を高く評価しており、江戸の混乱を懸念して彰義隊討伐に反対する海江田信義ら薩摩藩士を説き伏せて戦闘に参加した。大村は江戸市中を戦乱に巻き込まなかったことで、西郷の「顔を立てた」ともいえる。

 だが、この戦闘で寛永寺は根本中堂はじめ主要な伽藍を焼失するなど、壊滅的な打撃を受けた。彰義隊の戦没者は、皮肉にも後に西郷隆盛像が建立される場所で荼毘に付されたという。彰義隊の墓も西郷像のすぐそばにある。上野戦争後に広大な寛永寺の境内地は没収。明治6年(1873年)には公園用地への転用が決まり、現在の上野公園となる。その6年後の明治12年(1879年)、公園用地の一角に喜多院(埼玉県川越市)本地堂を新たな根本中堂として移築した。これが現在の寛永寺である。

彰義隊の墓
西郷隆盛像の裏にひっそりと建つ「彰義隊の墓」

 最寄り駅のJR鶯谷駅からは徒歩6分。JR上野駅からだと徒歩で20分かかるが、旧寛永寺の広大さを実感するにはこちらがおすすめ。西郷指揮下の薩摩藩兵が放った弾痕が生々しく残る寛永寺黒門は円通寺(東京都荒川区、東京メトロ・日比谷線三ノ輪駅から徒歩5分)に移築され、現在も見ることができる。

文:M&A Online編集部

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