西郷どん 東京都内ゆかりの地3選

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 2018年、最も注目される人物といえば、そう「西郷どん」。西郷隆盛の生誕190年で、折しも明治150年の節目にあたる。明治維新の立役者として、今も根強い国民的な人気を集める。NHK大河ドラマ「西郷どん」も快調にスタートした。M&A Online編集部「3選」シリーズの第二弾として、西郷どんの足跡をしのんで、東京都内に残るゆかりの地をいくつか紹介する。

忙中閑あり…愛宕山に勝が西郷を誘う

   肩で息をしながら、急な石段をようやくのぼりきると、愛宕山の山頂。標高25.7メートルで、東京23区で自然の山として最も高い。江戸幕府を開いた徳川家康の命により防火・防災の神様として祀られる愛宕神社が出迎えてくれる。創建は1603(慶長8)年。 

防火・防災の神様、愛宕神社…1603年に徳川家康の命により創建された

  時は流れて幕末動乱期、江戸城の明け渡しをめぐる交渉が行き詰まった1868年3月のある日、幕府側の勝海舟は倒幕側の西郷隆盛を愛宕山に誘った。山頂から江戸の町並みを見渡しながら、2人は町を戦火で焼失する無益さを話し合ったと言われる。後述するように、これが田町・薩摩藩邸での両者の歴史的会談につながり、江戸から明治へのバトンタッチが平和裏に進むことになった。

  神社正面の石段「男坂」は86段、傾斜は40度ほどある。別名、「出世の石段」と呼ばれる。講談で有名な「寛永三馬術」の一人、曲垣平九郎(まがき・へいくろう)の故事に由来する。三代将軍家光が通りがかり、梅が咲き誇る山頂を見上げて「誰か騎馬にてあの梅を取って参れ」と命じた。随行の家臣は皆、顔を下に向けるばかりだったが、一人の武士が愛馬の手綱をとり石段を上り始め、見事、梅を献上したそうだ。この人物こそ曲垣平九郎で、日本一の馬術の名人としてたたえられ、その名を全国に知られた。 

NHK放送博物館にも立ち寄りたい

  ちなみに、東京23区で第二の高峰は、桜見物の名所として知られる飛鳥山(北区)。高さ25.4メートルと、愛宕山にわずかに30センチ及ばない。愛宕山は1925年、ラジオ本放送が始まった“放送のふるさと”でもある。現在はNHK放送博物館(1956年開館。月曜日休館、入場無料)があり、多くの来館者で賑わっている。

  最寄りの東京メトロ神谷町駅から徒歩5分。同虎ノ門駅、都営線御成門駅からはそれぞれ8分ほど。

田町の薩摩邸…江戸城無血開城を実現した歴史的な「勝・西郷会談」

    地下鉄三田駅のすぐそばにあるのが、「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見の地」の石碑。円形の石碑の下に設置されている案内には「明治維新前夜 慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡」との説明がある。

勝・西郷会談の地であることを示す石碑

勝・西郷会談の様子を伝えるレリーフ

    新政府軍の江戸城総攻撃の直前に西郷隆盛と勝海舟の会談は2度行われおり、一度目は高輪の薩摩藩邸で、二度目がこの石碑のある田町薩摩邸であった。勝海舟は幕府と新政府が対立し、国が二つに分かれて争っていれば日本の力が弱まり、外国の植民地にされてしまうことを心配していたといわれる。

 西郷隆盛も勝海舟と面識があり、その見識の広さを認めていたため、江戸城明け渡しの申し入れを受け入れることを決意したという。4月4日には無血開城の合意がなされ、4月11日に徳川慶喜は謹慎先の寛永寺から水戸へ旅立った。

石碑の裏面

 石碑の下には説明文のほかに、西郷と勝が会談している様子を描いたレリーフが設置してあり、さらに石碑の裏面には昭和29年4月3日に地元の本芝町会が発足15周年を記念してこの石碑を建立したことが記されている。

寛永寺…西郷どんも死を覚悟した上野戦争の舞台

 西郷どんの銅像でおなじみの上野公園。その片隅にある寛永寺(東京都台東区)だが、幕末には現在の上野公園のほぼ全域がこの寺の境内だったというから驚く。それもそのはず、寛永寺は徳川幕府3代将軍家光の葬儀が執り行われて以来、増上寺(東京都港区)と並ぶ徳川家の菩提寺になったからだ。当然、幕府とのつながりも深かった。

 今から150年前の1868年1月に鳥羽・伏見の戦いで敗走した最後の将軍慶喜は、江戸へ戻ると寛永寺大滋院で謹慎する。幕臣や慶喜を将軍に送り出した一橋家の家臣たちは、江戸市中と将軍警護の名目で彰義隊を結成して寛永寺に本営を置いた。しかし、慶喜が新たな謹慎先として水戸へ移ると、抗戦派が台頭。これに新選組残党などの幕府側武装勢力が加わり、江戸城(現・皇居)に入った新政府軍と対峙する。

 いわば薩長土肥のM&Aで誕生した新政府軍は、長州藩士の大村益次郎を司令官として彰義隊の排除に乗り出す。5月15日に新政府軍が宣戦布告し、午前7時頃に両軍が武力衝突した。正門の黒門口(現在の広小路付近)は寛永寺の真正面だけに激戦地となった。薩摩藩は上野戦争に消極的だったにもかかわらず、大村に黒門口攻めを命じられている。さすがの西郷も「薩摩藩兵を見殺しになさる気か?」と驚いたが、大村は静かに扇子を開閉しながら「そうです」と答えたというエピソードが残っている。

 新政府軍はスナイドル銃やアームストロング砲などの最新兵器を駆使して、その日の午後5時には彰義隊を一掃。大村は戦闘が江戸市中に拡大するのを防ぐため、戦場後方の根岸には兵を配置せず敵の退路として残した。大村の想定通り彰義隊の敗残兵は根岸方面に逃走し、江戸市中は戦火を免れる。西郷と勝の江戸無血開城は無駄にならなかったのだ。西郷は大村の兵学知識と運用能力を高く評価しており、江戸の混乱を懸念して彰義隊討伐に反対する海江田信義ら薩摩藩士を説き伏せて戦闘に参加した。大村は江戸市中を戦乱に巻き込まなかったことで、西郷の「顔を立てた」ともいえる。

 だが、この戦闘で寛永寺は根本中堂はじめ主要な伽藍を焼失するなど、壊滅的な打撃を受けた。彰義隊の戦没者は、皮肉にも後に西郷隆盛像が建立される場所で荼毘に付されたという。彰義隊の墓も西郷像のすぐそばにある。上野戦争後に広大な寛永寺の境内地は没収。明治6年(1873年)には公園用地への転用が決まり、現在の上野公園となる。その6年後の明治12年(1879年)、公園用地の一角に喜多院(埼玉県川越市)本地堂を新たな根本中堂として移築した。これが現在の寛永寺である。

 最寄り駅のJR鶯谷駅からは徒歩6分。JR上野駅からだと徒歩で20分かかるが、旧寛永寺の広大さを実感するにはこちらがおすすめ。西郷指揮下の薩摩藩兵が放った弾痕が生々しく残る寛永寺黒門は円通寺(東京都荒川区、東京メトロ・日比谷線三ノ輪駅から徒歩5分)に移築され、現在も見ることができる。

文:M&A Online編集部