年金とM&A(1)従業員に支払う債務、買収価格に影響

alt

M&Aを成功に導くのに忘れてはならない要素が企業年金(以下、年金)だ。年金債務が買収価格の算定に大きな影響を与えることに加え、M&Aの前後で年金制度を円滑に引き継げるかどうかは労働条件の一つとして法的な制約も受けるからだ。M&A Online編集部は保険仲介や年金コンサルティングを手がけるグループ会社を傘下にもつマーシュアンドマクレナンカンパーニーズの関根賢二・戦略推進グループディレクターにM&Aを巡る年金問題について聞いた。

買収価格算定に年金債務の把握必要

――年金とM&Aはどのように関係するのですか。

 「M&Aの成功は何かを考えると分かりやすい。M&Aの成功は、基本的には、投資対象企業/事業が投資額を上回る企業/事業価値を生み出してくれること、と言える。つまり、M&Aの成功には、適正な価格で買収することと、買収した後に、企業/事業価値を向上させること、の2つが重要になる。年金はいずれにも関係するが、特にいくらで買うのかの計算に大切となる」

 「そこで、M&Aに際しての原則的な買収価格の算定方法を振り返ってみよう。買収価格算定に際しては、まず投資対象事業が将来キャッシュフローをいくら生み出すか、つまり儲けるかを算出し、その現在価値として事業価値を求める。次に事業以外で保有している土地や建物の価値を加算し企業価値を求める。そして最後に有利子負債を引くことで、株主価値、つまり、買収価格が算定される。この際、有利子負債には銀行からの借り入れのほか、年金債務も含める。なぜなら、年金債務は、企業にとって従業員に将来支払うと約束した負債に相当するからだ。つまり、適正な買収価格の決定には年金債務がわからないといけない」

――どんな年金制度をもっているときに注意しなくてはいけないのですか。

 「年金には2種類ある。1つは確定拠出年金、もう1つは確定給付年金だ。確定拠出年金は、企業が毎月、従業員に決まった金額を拠出し、これを従業員が運用する制度だ。企業は毎月の拠出を約束しているだけなので、企業会計上、債務額をバランスシート(貸借対照表)に計上する必要はない。一方、確定給付年金は、企業が将来の給付を従業員に約束している制度なので、その約束した金額を債務額としてバランスシートに計上しなくてはいけない。よって、確定給付年金をもっている企業を買収する際に年金が問題になることが多い」

M&A実施、年金制度が継続するか評価

――確定給付年金の評価方法は。

 「確定給付年金の評価は、従業員に約束した給付が、将来、いつ、いくら生じるかを予測し、その現在価値として計算する。この際、ゴーイングコンサーン、つまり今の年金制度が継続することを前提とする」

 「ところがM&Aを実施した場合、このゴーイングコンサーンの前提が怪しくなる。買収後も、今の年金制度が続くのか、どのように変わるのかを考えて評価する必要が出てくるからだ」

 「特に問題になるのは、グループ年金に加入している企業を買収したり、企業から一事業部門を分割したりするようなケースだ。買収にあたり年金制度の分割が必要で、年金の資産・債務などの権利義務の承継をしないといけなくなるからだ。この際に、確定給付企業年金法に基づいた手続きが必要だが、ここで定めている年金資産・年金債務の引き継ぎ方法や金額が、会計上の金額と異なるのがややこしい」

――具体的に、債務額をどのように買収価格に反映するのですか。

 「買収前後での年金制度の変更の有無にかかわらず、まずは、今の年金制度が存続したと仮定した場合の債務額を計算する。この計算は主に会計基準に則った計算で、年金債務と年金資産のネットの金額となる。次に年金制度の変更がある場合、追加でいくらのお金が必要になるか、また年金の分割ではいくらの年金資産を引き継げるかなどを厚生労働省が決めている確定給付企業年金法上の財政ルールに基づき計算する。そして、これらの金額を買収価格に反映する」

日本の重要性基準に注意必要

――かなり複雑な計算が必要なのですね。ところで、年金の専門家はM&Aのどの段階で参加することが多いのでしょうか。

 「M&Aのデューデリジェンスには、ビジネス、財務、法務、税務、人事など多様な専門家が参加する。年金アドバイザーは買い手企業の助言者として最初からか、あるいは、財務や法務よりも少し遅れて入ることもある。そして、適正な年金債務額を財務アドバイザーに連携したり、年金制度の引き継ぎ方を弁護士と共に買収契約書に反映したり、買収前後の労働条件を人事専門家と検討したりする」

――買収しようとしたら、対象企業に思った以上に年金債務があって大変だったというようなケースはあるのでしょうか。

 「日本基準、国際会計基準(IFRS)、米国基準のすべてにおいて、確定給付年金の債務額はバランスシートで開示することになっている。よって、その数値を見れば大体の債務額は把握できる」

 「ただ、いくつか気をつけなくてはいけない重要なことがある。例えば、年金債務を計算する際に使われる前提の妥当性、特に、割引率の妥当性だ。どの会計基準も、将来の支払額を割引計算するときの金利は決算日時点の市場金利に基づくことを求めているが、日本基準だけ、年金債務が10%以上変わらなければ前期と同じ金利を使っていいという例外的なルールである重要性基準を設けている。この基準を採用している企業の場合、市場金利がどんどん下がっている局面では債務の金額が実態より少なく計上されている場合があり、割引率を変更した途端に、年金債務が10%以上変動することになるので注意が必要だ。経営不振の企業ほど、重要性基準を適用して割引率を見直さない傾向があるかもしれない」

年金債務10%の変動で数十億円の影響

 「例えば、2015年度末で上場3,600社の年金債務の合計額は91兆円に上り*、一社平均で250億円程度、よって、年金債務の10%変動は25億円にも匹敵する。つまり、買収額へも数十億円規模の影響を及ぼす可能性があるので注意が必要だ。ただ、直近では、株価の上昇で年金資産が増えている会社が多いため、年金債務の問題は軽減されていると言えるだろう」。

 「もう一つ気をつけなくてはならない代表的な例が、同業などで組織した総合基金に加入している場合だ。いくつかの企業が合同で運営している年金制度に加入している場合、会計処理の難しさなどから、確定給付年金であっても、確定拠出年金のように会計処理をすることが認められている。つまり、確定給付年金も持っているにも関わらず、バランスシート上に年金債務が計上されていないことがある。このような、総合型の確定給付年金に入っている企業を買収する際には、その企業が負っている年金債務をしっかりと計算して、買収価格に反映しなくてはいけなくなるが積立不足が大きい場合も多く注意が必要となる」(次回に続く)

* 日本経済新聞 2016年7月26日朝刊

取材・文:M&A Online編集部

関連記事 海外M&Aの第三次ブーム? 今立ち返るべき原則とは