「何のために学ぶのか」自立への一歩 ~津田梅子(その5)

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進むべき道を邁進

1894年2月に帰国した梅子は、時代が進んだせいか洋行帰りの優秀女性英語教師として歓迎され忙しくなりました。華族女学校に復職、女子高等師範学校(現お茶水女子大学)教授も兼任します。またアメリカのコロラド州で開催された万国婦人連合大会では日本代表として出席し「日本の女子教育の現状」の講演を行い、現地の新聞に大きく取り上げられています。各地を歴訪してアメリカでヘレン・ケラー、イギリスではナイチンゲールなど困難な状況から自立の道を切り拓いた女性と会談するなど、梅子は身長140㎝あまりの小柄な体で女性の教育と自立のために精力的に世界を動き廻り、日本の現状をアピールしました。

1900年、小学校教員の初任給が8~9円だった頃、女性としての最高職位高等官五等・報酬800円(現在の約304万円に相当)の破格の処遇を辞して、同年9月14日36歳の梅子は自らの学校を創立します。「女子英学塾(現・津田塾大学)」は東京麹町の借家で、学生10名からのスタートでした。従来の良妻賢母育成の教育と違い、自由で開かれた校風・厳しく高いレベルの講義内容、梅子の理念「英語を通して国際的視野をもつ女性の育成」が内外の協力者や進歩的な層の共感を呼び、開校8年後には学生150名になりました。

しかし、自校の教育方針に対して第三者の介入を嫌い、誰からの金銭的な援助も頑なに拒んだため運営は厳しく、招聘したアリス・ベーコンや大山捨松・瓜生繁子などはボランティアとして協力していました。窮状を知ったアメリカのモリス夫人が主導して、梅子の学校運営のための寄付金を継続的に募り支援し続ける「フィラデルフィア委員会」を組織して、利害関係なく支え続けることになります。

当初は、塾のあまりに厳しい教育に脱落者も多く出ましたが、「何のために学ぶのか」と学生に真摯に問いかける梅子の姿勢に信頼が広がり、女性の自立と個人の尊重を目指す教育理念が広く理解を得ていきます。

長い休息

1919年1月、梅子は体調不全を自覚して塾長を辞任し、教育現場から引退します。積年の疲労からか衰弱は増し、約10年間の闘病の末1929年8月16日脳出血のため死去。津田梅子享年64歳でした。異例の法的許可を得て墓所は東京小平市の津田塾大学構内にあります。

近代の女子教育に残した功績を称えて数々の叙勲も受けた梅子の、死の直前の日記には「Storm last night(昨夜は嵐だった)」と記されています。まさしく嵐のような熱意と行動力で、近代日本の女性の教育と自立の糸口を切り拓いた人生でした。

梅子が自分の信じる道を貫き通せたのは、背景の恵まれた環境が発端だったのかも知れません。しかし幸運を超える、自発的な強い成長意欲と礼節ある人間関係なしには成し得なかった偉業でした。未だ日本の女性活躍は道半ばですが、性別や時代に関わらずビジネスパーソンにとっての成功の条件を、梅子の足跡が訓えているようです。

株式会社インソース より