一神教と疫病とコーポレートファイナンスⅨ│間違いだらけのコーポレートガバナンス(32)

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水路が豊富なオランダでは、灌漑等のための風車が発達した(写真はイメージ)

前回のコラムまでは、イベリア半島を舞台とし、キリスト教国家・スペインの中で人生を翻弄されたユダヤ教徒の人々の足跡を追ってきた。そして1492年、すべての財産をキリスト教徒に略奪され、スペインから追放されたユダヤ教徒の一部は16世紀以降オランダに集結。近代の幕開けに立ち会っていくことになる。

 現在の株式会社制度の骨格を最初から具備していた「オランダ東インド会社」

オランダは、1602年に世界初の株式会社「オランダ東インド会社」を立ち上げた。一方、イギリスが東インド会社を立ち上げたのが1600年だ。オランダ東インド会社はイギリスより2年遅れたにも関わらず、「世界初の株式会社」の称号を得た。それは、オランダ東インド会社が、完全とは言い難くとも「株主の有限責任制度」と「資本充実原則」、そして「株式譲渡自由原則」という株式会社の三原則を設立時から具備していたからだ。

これは本コラムの主題である「コーポ―レートファイナンス(企業金融)」理論の「骨格」そのものといって良い。イギリス東インド会社は、設立からしばらくは「当座企業」に近い性格で運営された。つまり、航海ごとに組成・清算されるプロジェクトファイナンスの要素を残していた。出資者は原則として無限責任だ。仕組みとしては第28回のコラムで考察した、コロンブスの航海におけるファイナンスと大差ない。これが、イギリス東インド会社が「世界初の株式会社」とは認知されていない理由である。

現在の株式会社の基礎となっている三原則。これがなぜイギリスではなくオランダで生まれたのか。そのような優れた仕組みを構築したのに、どうして最終的に世界の7つの海を支配したのがオランダではなくイギリスだったのか。そして、その過程に離散ユダヤ教徒はどのように関わり、あるいは関わらなかったのか。これらの疑問をひもとくのが今回からのテーマだ。

株式会社を作ったのはユダヤ教徒ではない

まずは最も重要な点について、簡潔に結論を書こう。株式会社制度を「発明」したのは、ユダヤ教徒ではない。世間には「株式会社制度はユダヤ教徒が作り、その仕組みを使って陰で世界と植民地を牛耳った」という類の「ユダヤ陰謀論」が溢れている。これもまた、西洋キリスト教社会が巧妙なマーケティング戦略の元に流布し続けた「フェイクニュース」である。

むしろ事実は逆だ。ユダヤ教徒は、特に初期のオランダ東インド会社において主役にはなれなかった。筆者はそう理解している。これについて順を追って説明していくことにしたい。そのためには少し冗長になるが、スペインを追放されたユダヤ教徒がオランダに集結していく過程、そしてオランダ共和国の成立過程を丁寧にたどってみる必要がある。

スペインを追放された離散ユダヤ教徒の多くは、直接オランダに向かったわけではない。最初に多くが逃れたのは、迫害がスペインほど苛烈ではなかったポルトガル、そしてオスマン帝国支配下にあったイスラム圏だ。

なぜ、ユダヤ教徒はキリスト教徒と同じ異教徒(イスラム教徒)の勢力圏に逃れたのだろうか。現代の中東紛争の厳しい状況からは想像し難いが、離散ユダヤ教徒の2000年にわたる旅を俯瞰(ふかん)すればイスラム教徒とユダヤ教徒が、実は世界各地でそれなりに共存してきたことがわかる。

離散ユダヤ教徒はイスラム圏を経てオランダへ

両者は共にアブラハムを始祖とする一神教であり、人々は神との契約によってガバナンス(統治)されると信じる点で共通している。ユダヤ教徒にとってそれは律法(タナハ)であり、イスラム教徒にとってはイスラム法(シャリーア)だ。

メシア信仰(神との契約を遵守した対価として、いつか救世主が現れ人々を救うという信仰)における両者の態度は微妙に異なるが、「ナザレのイエスはキリスト(救世主=メシア)ではない」という立場では一致している。一神教の構造的に両者は非常に類似しているのだ。最大の相違点は、神が人に与えた契約の内容(預言)を最も正確に授けられた「最も重要な預言者」はだれか、という点だ。ユダヤ教にとってそれはモーセであり、イスラム教にとってそれはいうまでもなくムハンマドである。

イスラム教徒は、アブラハムの神と最初に契約を結んだイスラエル民族に対して「経典の民」として一定の敬意を持ってきた。もちろん両者の間にも衝突や軋轢は何度も起きた。しかしそれは、キリスト教徒がユダヤ教徒に対して、驚くべき情熱と執念を持って15世紀以上に渡って続けた迫害、追放、そして大量虐殺とは比較にならないというのが筆者の認識である。

こうした宗教的な背景も恐らく無縁ではないだろう。1492年にイベリア半島を追放された数十万人のユダヤ教徒の多くが、イスラム圏に逃避した。離散ユダヤ教徒の卓越した技術と、天文、地図、造船、医学、製薬、金融、徴税などの職能は、オスマン帝国を中心としたイスラム勢力がカトリック的「世界統一支配」を目指すキリスト教勢力と対峙するために必要とされたのだ。

宗教改革とプロテスタントの誕生

そして、16世紀を象徴する新たな宗教が、ここにもう一つの軸を加える。神と人の間に介在する教会が信仰と財産を「中間搾取」する構造に疑問を感じた人々によって、教会に対する抵抗(プロテスト)が始まったのだ。そして、新興宗教「キリスト教プロテスタント」が誕生した。

この宗教改革の波が大きなうねりとなって押し寄せた地域の一つが、欧州を流れる大河・ライン川の河口域に広がる低湿地帯「ネーデルランド地方」だ。現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクが位置する地域である。

ネーデルランドで宗教改革が急速に浸透した背景には、言うまでもなくスペインとの対立があった。16世紀初頭、この低湿地帯はスペイン・ハプスブルク家が支配していた。その圧政と重税に苦しんだこの地の人々の間に、カトリックのスペインに対抗するための精神的支柱としてプロテスタンティズムが浸透したのは自然の流れだろう。

スペインに抵抗すべく立ちあがったネーデルランド諸州は、1579年には北部7州でユトレヒト同盟を結び、対決姿勢を強めていく。そして、スペイン・フェリペ2世の統治を否認する「国王廃位布告」を発布し、ネーデルランド連邦共和国としての独立に向け大きな一歩を踏み出す。ここではネーデルランド連邦共和国のことを「オランダ」と呼ぶ。

イスラム勢力と同じ理由で、オランダはユダヤ教徒を受け入れた。

スペインとの「八十年戦争」に勝つために、オランダは貿易と商業を通じて国富を蓄積する必要があった。また、最新の地図や製図法、天文学、航海技術、そして敵国スペインの状況を知るため、スペイン語やポルトガル語の能力も必要とした。イスラム勢力が離散ユダヤ教徒の専門能力と職能を欲したのと同じ理由で、オランダのプロテスタントもそれを歓迎した。

ポルトガルやイスラム圏に逃れていた離散ユダヤ教徒たちも、こうした動きに反応する。オランダが後発のポジションを覆して強国になるために、貿易と商業の振興を最優先し、宗教的相違には寛容であることを確かめると、徐々にオランダに集結し始めた。スペインがポルトガルを併合すると、ポルトガルのユダヤ教徒の離散もさらに加速した。余談になるが、この流れの中でポルトガルからオランダに逃れたディアスポラ(民族離散)の人々の子孫に、哲学者スピノザがいる。おそらく日本で最も有名なスファラディ系ユダヤ人*の一人だろう。スピノザについては、このコラムの最終局面で触れたい。

スペインはユダヤ教徒を追放して一時的な利益を得た。しかし、結果的に国家が長期にわたって発展していくために必要不可欠な機能と能力を、敵対勢力であるイスラム勢力やプロテスタント勢力にむざむざと献上することになる。離散ユダヤ教徒を多く受け入れ、商工業や医学などの近代的学問を発展させることに成功した、トルコのスルタン・バヤジット2世の言葉が残っている。この言葉は「ユダヤ人追放」が近代史にもたらした意味を端的に物語っているように思われる。

「フェルナンド(スペイン王)は、自分の国を貧しくし、我国を豊かにしてくれた。それでも賢明な王と呼ぶのかね?」

(出所:ユダヤ人の歴史 アブラム・レオン・ザハル著)

*「セファルディム」とも呼ばれる。スペイン・ポルトガルまたはイタリアなどの南欧諸国や、トルコ、北アフリカなどに定住したユダヤ人を指す。ドイツ語圏や東欧に定住した「アシュケナジム」と共にユダヤ人の二大勢力の一つ。

(この項続く)

文:西澤 龍(イグナイトキャピタルパートナーズ 代表取締役)