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【大光銀行】功罪相半ばする創業者の横顔 ご当地銀行の合従連衡史

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長岡市大手通にある大光銀行本店(Photo by ビースタイル ギガワークス)

新潟県長岡市に本店を置く大光銀行<8537>。その源流は1928(昭和3)年12月に設立した北越産業無尽にさかのぼることができる。その創業と発展に大きく関わったのが、1947年に新潟石油販売(現和田商会)を設立し、新潟商工会議所の会頭となった和田閑吉。北陸ガス(現在は敦井産業のグループ会社)の創業者であり、美術品収集家としても知られる敦井栄吉とともに、新潟県経済界の草創期の重鎮とされる“越後の三吉”と呼ばれた駒形十吉であった。

国民無尽商会と合併し、大光無尽に

駒形十吉は、1901(明治34)年に長岡市に生まれ、大阪の株式取引商で実務経験を積む。1928年に北越産業無尽の支配人として創設に参画し、当時厳しい経営状態にあった同無尽の再建に取り組んだ。1941年には同無尽の社長に就任し、個人事業から法人成りした国民無尽商会と1942年に合併、大光無尽を設立した。

その後、大光無尽の社長として順調に業績を伸ばしていく。1946年には第4代の長岡商工会議所会頭に就任、長岡経済界の重鎮として長岡市の発展に尽力する。そして1951年5月に制定された相互銀行法の施行に伴い、同年10月には無尽組織から相互銀行に転換した。

駒形十吉が地元経済界にとって重要欠くべからざる存在であったことは事実だ。だがその反面、公器としての金融機関にとっては、厳しい評価をせざるを得ない一面もあった。不正融資をはじめとする乱脈経営に同相銀を導いた一面があったからだ。

ジャーナリスト中川一徳氏による『二重らせん 欲望と喧噪のメディア』(講談社)によると、駒形の経営私物化ともとれる振る舞いが目に余るものだった様子が記されている。

「乱脈融資事件」で経営が傾く

駒形は共に功罪相半ばする存在の田中角栄を「角」と親しみを込めつつ呼び捨てにするほど昵懇の仲で、1970年には同相銀の私物化ともとれる駒形の振る舞いを、50人近い支店長や部長が告発したこともあったという。告発の内容は債権取立てで得られるお金で私腹を肥やし、私邸の改修費や保養ですごす熱海の施設経費を同相銀に支出させ、親族企業へ不正融資を行うなど多岐にわたり、その告発はクーデターとも騒がれた。

その年、駒形は会長に退く。だが、1979年4月には簿外債務保証が743億円に達していることが発覚し、214億円の累積赤字を計上した。同年秋に大光相銀は強制捜査を受け、当時、頭取だった娘婿は引責辞任後に特別背任罪で逮捕、翌1980年3月には旧東証1部の上場廃止となった。「大光相互銀行の乱脈融資事件」といえば、業界に身を置く人間でなくとも記憶に残る事件だった。

その後、大光相銀は、全国88の金融機関から約540億円の低利融資を受け再建を図った。融資返済によって一応の再建が完了したのは、相互銀行法の廃止に先立ち、多くの相互銀行が普通銀行へ転換した1989年の前年のこと。こうして大光相互銀行は、まるで第4コーナーでまくりをかけるように、他の相互銀行に歩調を合わせ、1989年8月に普通銀行に転換、大光銀行と改称した。

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