避暑地・別荘地として有名な軽井沢町(長野県)西部にある千ヶ滝別荘地は1918年に開業してから100周年を迎えた。その別荘地の開発は西武グループの総帥、堤康次郎によって行われた。
千ヶ滝別荘地は現在も西武グループの西武リアルティソリューションズによって管理・運営されている(西武ホールディングス<9024>)。その点では千ヶ滝別荘地がM&Aを行ったわけではないが、100年以上の時を刻む中では数々の事業への進出と撤退を繰り返してきた。
軽井沢のいにしえのメインストリート、旧軽井沢銀座通りを北に歩き、商店街が尽きる南側に大塚山という小高い丘がある。この大塚山に最初の別荘を建てて一夏を過ごしたのは、アレキサンダー・クロフト・ショーというカナダ人宣教師だった。1888(明治21)年のことである。
ショーはひと夏を過ごした軽井沢の魅力を内外の著名人に紹介し、やがて彼らが旅館やホテルに滞在、別荘を構えるようにもなった。明治期の軽井沢では旅館・ホテルの新築、改築が相次ぎ、1894年にはショーをもてなした亀屋旅館オーナーの佐藤万平が旅館を改築して外国人専用の万平ホテルを開業し、1906年には三笠ホテルが開業している。
このような軽井沢人気に目をつけたのが箱根土地という株式会社だった。
箱根土地は1920(大正9)年に日本商工会議所会頭となった藤田謙一が創業し、翌年から、のちの西武グループを率いる堤康次郎が経営した不動産会社である。西武の基礎をつくった会社として知られ、かつて西武グループの中核企業であった国土計画(後のコクド)、また、現在のプリンスホテルの前身とされている。
この箱根土地はその社名どおり、箱根(神奈川県)の強羅や芦ノ湖周辺の別荘地を分譲した会社だった。同時期に、軽井沢の千ヶ滝別荘地や東京目白の目白文化村などの分譲も展開し、さらに現在の大泉学園(練馬区)、東京都国立市、同小平市で進めた学園都市構想にもとづく宅地開発事業など、大規模な不動産開発も行った。
なお箱根土地は1944年に国土計画興業に、戦後は1965年に国土計画に、1992年にはコクドと社名変更を繰り返し、2006年には当時のプリンスホテルに吸収合併され消滅している。
堤康次郎と箱根土地は千ヶ滝別荘地で「土地と建物を販売するだけなく、別荘文化を育てていこう」と決め、外国要人、上流階級が多かった別荘地では斬新な区画分譲方式を採用した。いわば、区画整理した別荘地の分譲である。この方式によって別荘を持つという生活スタイルを多くの人々に浸透させ、別荘を身近なものに感じてもらおうと考えた。
1918年、堤康次郎は千ヶ滝の沓掛区有地、60万坪にのぼる山林を買収し、「軽井沢千ヶ滝の文化村」として開発を始めた。早速、道路や水道の建設工事に着手。このとき千ヶ滝遊園地という会社を設立し、貸別荘を13戸建て、千ヶ滝クラブという共同浴場をつくった。文化といっても、上流階級だけのものではなく、いわゆる大衆文化を育む思いもあったのだろう。また、いきなり別荘地を購入するのではなく、貸別荘による別荘体験を味わってもらいたかったのではないか。堤康次郎は翌1919年には千ヶ滝マーケットの建設に着手し、別荘送電用で現在も稼働する湯川第一発電所を建設した。
この千ヶ滝遊園地は箱根土地が設立するまでの暫定的な会社であったのかもしれない。いわば、軽井沢開発を目的にした先陣、アドバルーン的な会社である。千ヶ滝遊園地は1920年に箱根土地が設立された際に解散し、資産を箱根土地に移している。
ただし、解散する前には貸別荘を60戸ほど建て、千ヶ滝のほか浅間山周辺の鬼押出し、六里ヶ原などの土地を買収していった。区画分譲方式ではいわゆる土地付別荘の販売も行い、当時は“500円別荘”という触れ込みもあった。
1921年、別荘地内に観翠楼という旅館がオープンした。箱根の環翠楼は約400年の歴史があり有形登録文化財に指定されている老舗旅館だが、千ヶ滝の観翠楼は千ヶ滝別荘地のクラブハウス(旅館)として建設された。戦後は1968年に西武の健保寮として西武鉄道に譲渡され、1994年に老朽化のため解体されている。
1923年には軽井沢グリーンホテルが営業を始めた。このホテルは千ヶ滝別荘地の中心施設として建設され、建替えや米軍の接収などを経て1980年には閉鎖。その後、西武軽井沢寮としてホテル営業を行ったものの、1997年に老朽化のため解体された。
昭和期に入り、千ヶ滝別荘地は土地100坪で別荘付1500円になり、1924年には千ヶ滝中区に映画館やテニスコート、プールなどがある千ヶ滝遊園地がオープンした。この遊園地は、箱根土地創業前の会社とは異なるものの、西武が大衆文化の隆盛を目的に建てた施設だろう。
さらに1928年に完成した朝香宮別邸が20年後の1948年、プリンス・ホテルとして開業した。西武の代表的なホテルグループは「プリンスホテル」という名称だが、その由来はこの朝香宮別邸を「プリンス・ホテル」としたことに始まる。
千ヶ滝に室内スケート場が建設されたのは1951年のことだ。年配の方だと、この頃からの軽井沢と千ヶ滝を“実体験”した思い出もあるだろう。1956年には西武デパート軽井沢店がオープンし、さらに軽井沢スケートセンターも営業を始めた。なお、西武デパート軽井沢店は1993年にコクドに売却されている。
軽井沢スケートセンターは屋外の400mリンクと屋内リンク、テニスコート、ホテルなどがある大規模なスポーツ娯楽施設だった。単なる娯楽施設ではなく、1963年には世界スピードスケート選手権が行われたほか、世界スプリント選手権、全日本選手権、ISUワールドカップなどの大規模な大会も行われている。当時娯楽スポーツとしてのスケート人気も高く、多くの行楽客が訪れ、軽井沢の冬の風物詩でもった。
当時、大衆スポーツ文化としてはボウリングも人気が高かった。千ヶ滝別荘地では、1969年に8レーンのボウリング場「千ヶ滝ボウル」がオープンした。ただし、娯楽の変遷とともに、この千ヶ滝ボウルは1975年に閉鎖されている。
また、軽井沢スケートセンターも老朽化のため、隣接していた軽井沢千ヶ滝温泉ホテル(1977年開業。旧軽井沢スケートセンターホテル)とともに、2009年に閉鎖された。以降は立ち寄り湯軽井沢千ヶ滝温泉のみが営業を続けている。
別荘地千ヶ滝としては1956年に「せせらぎの里」の分譲が始まり、1960年にかけて西区の分譲地造成が進み、芹ヶ沢の分譲も始まった。以降も歌鳥の里、松ヶ丘、ひぐらしの里、東区緑ヶ丘の分譲が始まった。
プリンスホテルは千ヶ滝が発祥だが、1973年に軽井沢プリンスホテルが営業を始めた。そのため、それまでのプリンス・ホテルは千ヶ滝プリンスホテルに改称した。
さらに、東京都港区にある品川プリンスホテル内に置いていた高輪美術館を1981年、千ヶ滝に移転した。現在のセゾン現代美術館である。
時代は平成を迎え、バブル期には千ヶ滝で1平方メートル11万円の土地値がつき、1億5,000万円の建売別荘があった。だがバブル崩壊とともに、“別荘バブル”も鳴りをひそめていく。
大衆文化の様相も、より多様になっていった。1995年には軽井沢プリンスホテルに隣接する軽井沢・プリンスショッピングプラザや千ヶ滝フィッシングパーク(フィッシングガーデン)が開業した。
別荘でも建物譲渡特約付定期借地権物件が販売されるようになった。そして千ヶ滝別荘地では「新からまつの森2期」が「あさまテラス」と名称変更し、2014年にはあさまテラス内に日本初の全寮制国際高校であるISAK(現UWC ISAK Japan)が開校した。ISAKとは「インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢」のことで、創立50年以上の歴史を持つ国際的教育機関のUWC(ユナイテッド・ワールド・カレッジ)の認定を受けた高校だ。
千ヶ滝の北に位置する旧軽井沢スケートセンター広場の小高い丘に、千光稲荷神社という神社がある。その奥に、ひときわ恰幅の良い堤康次郎の立像がひっそりと建っている。
人の気づかぬ所にその価値を見出し、これを国家に役立たせるとの信念を持って、軽井沢を国際親善文化観光都市とすべく特に心血を注いだといったことが碑文に刻まれている。廃墟となった軽井沢スケートセンターの施設を見下ろすが、果たして、その積年の思いは実現されたのだろうか。
Sol y Sombra(光と影)に彩られた軽井沢千ヶ滝別荘地。100年を超え “老舗別荘地”の象徴としては今も有名だが、堤康次郎が思い描いた文化創出の夢からすると、少し忸怩たる思いがあるのではないだろうか。
文・菱田秀則(ライター)