利己と利他、剛毅の心|M&Aに効く論語12

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photo by LoveTheWind/iStock

この連載も今回で最終回となりました。そこで、渋沢栄一が『経営論語』(現代語訳)で引用している次の言葉からスタートしましょう。

夫仁者己欲立而立人、己欲達而達人

夫れ仁者は己(おの)れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達す。 

巻第三 雍也第六30

社会や時代の要請と向き合う

この言葉は、次のように解釈できます。

仁の人は、自分がやりたいと思えばまず人がやれるようにし、自分が達成しようと思えばまず人に達成させてやるのだ。

他人のことを自分のこととして考えることができる人物が仁の人だということでしょう。渋沢は、自分のことだけよりも社会を考えることが優れた人の特徴としていたのです。

「仁/義」のイメージも、渋沢栄一の時代と比べれば、大きく変わりました。たとえば「自分の信念で生き、信念に殉じる」といった生き方は、いまの時代にはフィットしないでしょう。もちろん信念はあっていいものです。あるべきでしょう。だからといって、一つの信念には一つの行動様式しかない、と決めつけてはいけないのが、これからの時代の考えではないでしょうか。

社会や時代の要請を無視することはできないはずです。江戸時代や明治、昭和の太平洋戦争までの社会では、信念はそのまま特定の言動によって表現されるもので、たとえば主君のためには切腹して殉じる、といったことが当然のように信じられていたわけです。それが「仁/義」に基づく行動だとみなされました。武士は武士らしく、軍人は軍人らしく、商人は商人らしくといった、それぞれの時代の要請です。

ところが、時代の変化を学問として学び、取り入れていく中で、「仁/義」で賛同した者たちによる集団であっても、集団内の言動までもが強制的に統一される必要はないことを私たちは学んだのです。

いま必要な「剛毅」とは?

子曰、剛毅木訥近仁。

子の曰わく、剛毅木訥、仁に近し。

巻第七 子路第十三27

剛毅とは、強い意志を持ち簡単には屈しない精神力のこと。木訥は、飾りけがなく口数が少ないこと。「巧言令色少なし仁」に対応する言葉として知られています。

「巧言令色少なし仁」については、「本質を見極める|M&Aに効く論語3」で触れましたが、その先にあるものとして、しっかりとした意志を持ち、ちょっとやそっとでは屈しない精神力を持ち、虚飾に走ることなく、沈黙をも恐れない人が、どちらかといえば仁の人に近いと言っています。

「ミッション/ビジョン」「パーパス/ウェイ」に賛同した社員だからといって、社長の言葉を絶対視する必要もなければ、全員が同じ言動をする必要もありません。そして時代に応じて、言動は変化していきます。

同時に、言動の変化によって、「ミッション/ビジョン」「パーパス/ウェイ」は常に見直しの対象となります。時代に合わなくなった余計な部分は削られ、より核となる「ミッション/ビジョン」「パーパス/ウェイ」になっていくのです。

そう言うと「精神力が足りないのでは?」「ふらふらと移ろっているのでは?」と思われるかもしれません。ですが、私たちは膨大なデータやエビデンスに基づく判断を迫られており、そこに独自の感性を加えて生きて行く世界に住んでいます。

そのときに必要な「剛毅」は、頑固とはまったく違う強さではないでしょうか。しなやかで、なおかつ強い存在。「木訥」もまた、寡黙とはまったく違う静謐さではないでしょうか。本質をつくシンプルで最小限の言葉で、感性豊かに表現することが求められているように思えてなりません。

たとえば、M&Aによってこれまで異なる立場で、それぞれのやり方で仕事をしてきた人たちが手を組むことになったとき、さまざまな軋轢が起こります。気持ちであるとか、やり方でぶつかる可能性は高いでしょう。

そのとき、どちらかが大切にしてきた「ミッション/ビジョン」「パーパス/ウェイ」を捨て去って、相手の考えに同化しなければならないのでしょうか?

ここまでお読みになればおわかりのように、その必要はありません。信念まで曲げろ、宗旨替えをしろ、と迫る必要はないのです。大切なのはお互いに学ぶことによって、信や礼から変えていくことです。

鏡のような役目を果たす「論語」

もちろん、この世界で、ただ正義を振り回すだけでは人々を動かすことはできないでしょう。

子曰、清矣、曰、仁矣乎、曰、未知、焉得仁、

子の曰わく、清し。曰わく。仁なりや。曰わく、未だ知らず、焉んぞ仁なることを得ん。

巻第三 公冶長第五 19

正しいことをするだけ、自分の欲を剥き出しにしていないというだけでは、清い人ではあるものの、その行動が本当に無私の気持ちから起きているのかわからないので、仁だとは言えない、と孔子は指摘しています。

論語は自分を映す鏡(iridi/iStock)

渋沢栄一は「仁は本来、思いやりや清廉潔白にその趣旨があるのではない」との立場を示しています。渋沢は仁を「済生救民」(さいせいきゅうみん)の心として解釈していたようです。

確かに、自分を清廉な人物と見せたい、と思う人もいるのは事実。だからこそ、見た目でキレイな行動をしているからといって優れた人とは言えないのだと強調しているのです。ビジネスにおいても、生き方においても、本当にその行動が世の中のためになっているかを見なければ、「仁/義」に生きる人かどうかは、判断ができないのというわけです。

M&Aも他のビジネスも、機械的な行為、計算式のような行為からはちょっと外れて、きわめて人間的な部分が大きく、そこには生き方、信条、気持ち、欲望など計算しきれない部分が必ずつきまといます。ともすれば、その計算できない部分は「わずらわしい」「読めない」「わからない」と無視してしまいがちですが、人がどう動くのか、決断するのかを考えたときには、無視できない大切な要素となります。

「論語」は、確かにそれを学んだからといって、すぐにお金儲けができたり、優れたリーダーシップが発揮されるようなノウハウではありませんが、みなさんにとって判断や決断をするとき、自身の成長を促すとき、さらには人と接する際に自身の言動を見直すときなど、さまざまな場面で鏡のような役目を果たしてくれるはずです。

孔子の言葉として流布されているものの中には、出典が不明だったり、原典にはなかったり、大胆な解釈によって別の意味が加えられているものも散見されますので、たまには原典を読んでみて、その中から、みなさんの目にとまった言葉、心にひっかかった言葉を見つけてみてはいかがでしょうか。

※『論語』の漢文、読み下し文は岩波文庫版・金谷治訳注に準拠しています。

 文:舛本哲郎(ライター・行政書士)