いま、世界は新たな危機に直面している。今回のコロナショックは2008年に起きたリーマンショックの再来になるのではないかと危惧する声もある。
リーマンショックの発端は2008年9月15日、アメリカの大手証券会社リーマン・ブラザーズの経営破綻だった。その負債総額は米国史上最大の6,130億ドルに上り、世界的な金融危機の引き金となる。タイムズスクエアの本社から従業員が荷物を運び出す光景は、きっと多くの人の記憶に残っていることだろう。
あの時、渦中の社内では何が起きていたのか。そんな疑問に答えてくれるのが、今回紹介する『リーマン・ブラザーズ最後の4日間』だ。BBCが2009年に製作したこのドラマは、リーマン・ブラザーズが経営破綻を迎える直前の4日間、具体的には、2008年9月12日から15日にかけての出来事を描いている。
同様にリーマンショックを題材にした作品としては、その実態を調査したドキュメンタリー映画『インサイド・ジョブ』(2010年)が知られている。一方、本作は徹底して当事者の行動を再現することにこだわっており、インタビューや書籍では伝わりづらい、入り組んだ人間ドラマが魅力である。
流石はBBC製作というだけあって、そのキャスティングは劇場公開作にも引けを取らない。『ハムナプトラ/失われた砂漠の都』(1999年)でブレイクを果たしたコーリイ・ジョンソンや、『ベイブ』(1995年)の相手役で知られるジェームズ・クロムウェルらが名を連ねている。ドキュメンタリードラマの秀作として、彼らの演技にも注目してほしい。
さて、4日間の物語を通して主役となるのが、当時のリーマン・ブラザーズCEO、リチャード(ディック)・ファルドだ。1994年から同社の舵を取ってきた人物で、過去にはアジア通貨危機を切り抜けた実績もある。ウォール街でも屈指のキャリアを持つ彼は、まさに人生を金融のために捧げてきた男といえるだろう。ちなみに、業界では「ゴリラ」の異名で呼ばれていたようだ。
とはいえ、冒頭から私たちが目の当たりにするのは、そんな傑物の取り乱した姿である。赤ら顔で電話越しの相手に怒鳴り、幹部社員には「まだ危機的状況ではない」と声を荒げる。挙句の果てには、置いてあったゴリラのぬいぐるみに八つ当たり。それも無理からぬことで、この時、リーマン・ブラザーズの株価は一週間で75%も下落していた。瀕死の同社に残された唯一の道は、身売りする相手を一刻も早く見つけることだったのである。
サブプライムローンという巨大なリスクを承知の上で、危険な綱渡りを続けてきたファルド。彼の暴走が経営破綻の一因となったことは言うまでもないが、こと4日間に関していえば、事態はなかなか複雑だったようだ。金融業界の様々な思惑が、リーマン・ブラザーズの背後で動いていたのである。
その筆頭といえるのが、当時の財務長官ヘンリー・ポールソンだった。この危機的状況に直面した彼は、ウォール街のトップたちを連邦準備銀行に招聘する。ここは皆で一致団結して、リーマン・ブラザーズへの救済策を考えようというのである。
しかし、その一方でポールソンは政府による公的資金援助をきっぱりと否定する。リーマン・ブラザーズは「大きすぎて潰せない」(too big to fail)企業ではないというのだ。当時は新自由主義を推し進めるブッシュ政権下だった。ポールソンがデリケートな立場に置かれていたことは察するが、その判断がファルドにとどめを刺す要因となってしまう。
結局、その不良資産が巨額であることを懸念し、どの企業もリーマン・ブラザーズの救済に名乗りを上げない。かろうじて買収交渉の余地が残されたのは、米国大手バンク・オブ・アメリカと、ロンドンに拠点を置くバークレイズの二社だけとなったのである。
もっと早く話し合えていれば……、と思っても仕方がない。月曜の朝には株式市場が取引を開始し、前代未聞の倒産が決まってしまう。以降、ドラマは畳みかけるような場面転換を繰り返し、金融災害を前にして人々が慌てふためく様子を映し出していく。
ファルドは諦めずに買収交渉を進め、金融業界のトップ会合は白熱する。ポールソンはあくまで静観の立場にあるようだ。誰か一人が引き金を引いたわけではない。複数の意図が重なり合った先で、引き金は引かれてしまったのだ。
わずか2日間で破産申請の準備にあたった顧問弁護士ハーヴィー・ミラーは、このドラマにおける一番の受難者といえる。ファルドの前で狼狽する彼が「黙示録の話のようだ」と語った通り、リーマン・ブラザーズの経営破綻は世界の終わりにも似た出来事だったのである。
と、ここまで再現ドラマの主要人物を紹介してきたのだが、実は本作には狂言回し的なキャラクターが登場する。ザッハと呼ばれる架空の幹部社員だ。軽妙な口調の彼によって、サブプライムローン、とりわけ債券担保証券(CDO)の仕組みが解説されているので、金融問題に疎くても十分に話を追いかけることができるだろう。
最後に言い添えておくと、このザッハの存在は私たちに重要な視点を与えてくれる。そう、当時リーマン・ブラザーズで働いていた約25,000人の従業員だ。冒頭で述べたニュース映像が呼び起こされる。段ボール箱を抱え、憔悴した顔でインタビューに答える社員たち……。世界的な雇用情勢の悪化は、ここから始まったのだった。
奇しくも2020年現在、世界は新たな危機に直面している。その原因はまったく異なるが、財政・金融政策のあり方が問われている点では同じである。
もしも12年前が過ぎ去りし思い出だというのであれば、今こそ本作を通して、その記憶を蘇らせるべきだろう。なにせパンデミックによる失業者数は、リーマンショックを上回るとさえ言われているのだ。
文:村松 泰聖(映画ライター)
こちらの記事もおすすめ リーマンショックを最も簡単に理解できる作品|インサイド・ジョブ
<作品データ>
原題:The Last Days of Lehman Brothers
邦題:リーマン・ブラザーズ 最後の4日間
2009年・イギリス(1時間)