三ツ矢サイダー 140年目の「初めてのKiss」|産業遺産のM&A

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ホームセンターコーナン川西平野店の奥に佇む「三ツ矢サイダー発祥の地」

『三ツ矢サイダー』は2021年で140年の歴史を誇る超老舗格の飲料である。1881年、ウィリアム・ガラン(ウィリアム・ガウランド)というイギリスの化学者が、現在の兵庫県川西市平野で天然鉱泉水を発見した。そして、その天然鉱泉水を飲み水として最適な鉱泉と判断し、同地で炭酸水の製造を始めた。

なお、単純に「発見した」という表現は正確ではないのかもしれない。実は当地には江戸期まで摂津三湯(摂津とは現在の大阪府北中部と兵庫県南東部のこと)として平野の湯があり、湯治場として栄え、鉱泉の存在そのものは知られていたからだ。明治期に入り廃れてしまったその鉱泉水をウィリアム・ガランが「飲み水として最適であることを発見した」ということもできる。

「三ツ矢」ブランドはどこから来たのか

平野の天然鉱泉水は1884年に三ツ矢平野鉱泉という会社が『平野水』という名称で発売する。その評判が高まり、当時の宮内省は天皇家が利用する御料水に指定した。1897年のことだ。当時は皇太子であった大正天皇(東宮殿下)の御料品に指定されたとされる。

平野の鉱泉水の評判はますます高まり、1907年には輸入されたサイダーフレーバーエッセンスで味つけして「シャンペンサイダー」を発売。当時のブランドは、社名と同じく「三ツ矢」である(商標として登録したのは1899年とされる)。三ツ矢印の『平野シャンペンサイダー』という商品名だったということになる。

この「三ツ矢」の名は、平安時代の源氏の故事にさかのぼるという。

平安時代の中期、源満仲という武将が城をつくるべく神社に祈祷した。神のお告げは「矢の落ちたところに城をつくるべし」だった。その矢を探しあてたところが、当地である多田沼。矢を探しあてた男に、三ツ矢の姓と三本の矢羽の紋が与えられたという。源満仲が鷹狩りに出た際、近くの谷に湧く水で鷹が足の傷を治して飛び立つのを見て、この水が天然鉱泉だとわかった。こうした言伝えから「三ツ矢」という名称が生まれたといわれる。(アサヒ飲料「三ツ矢の歴史」より)

 その後、1912年には、現在も建物が残る御料品製造所が建設されている。それから40年の時を経た1952年、『平野シャンペンサイダー』は『全糖三ツ矢シャンペンサイダー』と名称を変えた。いわば人工甘味料ではなく、「砂糖でつくったサイダー」だ。当時、砂糖は絶対量が少なくコストもかかり、大量生産される飲料に使われることは少なかった。その点、甘味成分に砂糖しか使っていない「全糖」は、ぜいたくな清涼飲料水だったといえる。

『カルピス』の向こうを張るキャッチコピー

川西市の文化遺産第1号として認定された源泉地室

実は『三ツ矢サイダー』の製造元であるアサヒ飲料では、姉妹品として『三ツ矢レモラ』という商品を1960年代の後半に発売している。レモン味で大人の風味を打ち出した。同社の『カルピス』が「初恋の味」を謳ったのは1922年のこと。その45年後に『三ツ矢レモラ』は「初めてのkiss」と謳った。1967年の広告を見ると「はじめてのKissみたい!」というキャッチコピーが踊っているが、「おっ!」というか「きゅん!」というか、目を引く存在だった(上掲、アサヒ飲料「三ツ矢の歴史」を参照)。

そして1968年に『三ツ矢サイダー』という商品名になり、戦後の清涼飲料水のなかで確固たる地位を築いた。『三ツ矢サイダー』は1970年代〜1980年代、ビール業界にあってアサヒビールが低迷した時期に、その屋台骨を支えたともいわれる。

最近では2016年に透明果汁炭酸という新しいコンセプトを打ち出し、『三ツ矢 澄みきるグレープサイダー』、『三ツ矢 澄みきるオレンジサイダー』を発売。ちなみに、三ツ矢ブランドとしては1981年に『三ツ矢コーヒー』も発売している。

ホームセンターの陰に隠れて…

三ツ矢サイダー発祥の地は、冒頭の写真のようにそこが発祥の地であることは広告塔のように表示されている。だが今は、その施設は堅く門扉が閉ざされている。川西市内を走る能勢電鉄「平野」駅の近く、コーナンというホームセンター(コーナン川西平野店)の奥にある。

ひっそりと佇む歴史的建造物だが、2019年3月に、同地に残る旧三ツ矢記念館(現在は開館)と川を隔てた谷筋にある源泉地室が地元川西市の文化遺産第1号として認定された。

建造物の名称としては、旧三ツ矢記念館が旧帝国鉱泉株式会社御料品製造所であり、源泉地室が旧帝国鉱泉株式会社源泉地施設である。アサヒ飲料はかつての御料品製造所を三ツ矢記念館として活用していたが2000年代に閉館し、そこが川西市の文化遺産第1号と認定されたことになる。

帝国鉱泉のM&A史を見る

この帝国鉱泉とはどのような会社であったのか。『三ツ矢サイダー』を、商品の歴史ではなく製造元の会社の変遷という視点で見てみよう。

帝国鉱泉の設立は明治後期の1907年。明治初期、政府は殖産興業の名のもとに多くの外国人技術者を日本に招いた。この時期、全国で外国人技術者の技術指導により建造物が建てられ、製造機器が開発され、それが産業遺産と呼ばれるようになった。この経緯は、これまでの『産業遺産のM&A』のコーナーでも見てきたとおりだ。この外国人技術者の招聘と同時に、欧米の生活習慣も日本に浸透してきた。そのなかに、飲料としてミネラルウォーターを好み、たとえば洋酒をミネラルウォーターで割って飲むといった習慣があった。おそらく、こうしたことを背景に日本でも清涼飲料水や炭酸水の需要が徐々にではあるものの高まっていたのだろう。

帝国鉱泉はそうした欧米文化の移入を契機に、いわば国の事業として鉱泉の製品化に携わっていたのではないだろうか。

帝国鉱泉の前身は、上記の三ツ矢平野鉱泉という合資会社である。ウィリアム・グランが発見した鉱泉水の製品化を進めた会社。その三ツ矢平野鉱泉が帝国鉱泉として株式会社化し、三ツ矢印の『平野シャンペンサイダー」を発売し、『三ツ矢シャンペンサイダー』に改称して販売したことになる。

第二次大戦前後のビール業界再編に揉まれる

帝国鉱泉は大正期の1921年に加富登麦酒に吸収合併され、日本麦酒鑛泉に改称した。その約10年後の1933年に加富登麦酒は大日本麦酒と合併したが、『三ツ矢シャンペンサイダー』は日本麦酒鑛泉の事業として継承されたようだ。

そして第二次大戦を経て、この大日本麦酒が朝日麦酒と日本麦酒(のちのサッポロビール)に分割され、『三ツ矢シャンペンサイダー』は朝日麦酒が継承した。この朝日麦酒がアサヒビール、現在のアサヒ飲料である。

アサヒ飲料では例年、3月28日を「328」で「三ツ矢サイダーの日」として、3月28日前後の週末に「三ツ矢感謝祭」を開催してきた。「感謝」には、愛飲してもらっているお客に感謝するとともに、『スーパードライ』による同社の低迷からの脱却を陰ながら支えてきたことへの感謝の意味合いがあるのかもしれない。今年はどのようなイベントが開催されるか、楽しみだ。

文:菱田秀則(ライター)