「何のために学ぶのか」自立への一歩 ~津田梅子(その3)

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育まれた心の土壌

梅子の勉学に対する吸収力はすさまじく、市内のコレジエト・インスティチュート(私立の初等教育機関)に通い、英語やピアノを習い始めます。渡米9カ月後には日本からアメリカへの渡航の模様を綴った絵日記『A little girl's stories』を独力で英文で書き上げ、ランマン夫妻を驚かせました。

勉学だけではなく、アメリカでの生活慣習・季節の行事、クラスメイトや近隣との交流などを通じて、開放的で平等を尊ぶ精神文化・個人の個性を尊重する礼節などを身につけたのかも知れません。新大陸アメリカでも身分階層や差別がなかった訳ではありませんが、身分の上下に関わらず個人が意思を表明することの大切さ・広く人として共感し理解し合う博愛の姿勢などの精神的バックボーンと感じられたのか、その後梅子は自分の意志でキリスト教の洗礼も受けています。

梅子は14歳になる1878年、さらに中等教育のアーチャー・インスティチュートに進学して、必須科目のフランス語・ラテン語などの語学、英文学・心理学・自然科学なども修めます。休暇には夫妻とともに各地への家族旅行を楽しみ、ピアノも人前で演奏できるほどに上達していました。

こうして温かい愛情に包まれ、精神的な土壌を育んだ多感なハイスクール時代を無我夢中で送っているうちに時は流れ、10年の留学期間の終了が近づきます。

帰国命令

1881年、日本から留学期間終了の知らせとともに帰国命令が届きます。3人の留学生の内、ヴァッサー大学3年制音楽科を6月に卒業した永井繁子は帰国が決定しますが、アーチャー・インスティチュート在学中の梅子とヴァッサー大学本科(4年制)在学中の山川捨松は、卒業まで1年間の留学延長を願い出ます。梅子にとっては初等・中等教育を終える節目に当たります。

許可を待つ間、梅子のホームステイ先のランマン夫妻は「もしも梅子の留学が打ち切られるのであれば、私たちがすべての費用を負担して支援し続けます」と言うほどに、夫妻にとって梅子の存在は大きくなり、梅子自身もすっかりアメリカの家庭や生活様式・価値観に馴染んでいました。1年間の留学延長がかなった後も勉学に励み、その後の梅子にとって重要な理解者・協力者となるフィラデルフィアの富豪ウィスター・モリスの妻メアリ・モリスとも出会い、親交を深めています。

最後まで残った女子留学生2人は、政府からの支援のもとに11年間勉学に集中できたことに感謝し、帰国後は自分たちが積んだ経験をもとに国に恩返しする番だと、意気込んで帰国の途に就きます。1882年11月、梅子は17歳でした。

株式会社インソース より