一神教と疫病とコーポレートファイナンスⅨ│間違いだらけのコーポレートガバナンス(30)

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ユダヤ教徒の犠牲の上に「大航海時代」が幕を開けた(写真はイメージ)

前回のコラムでは、スペイン王国と世界の歴史に大きく影響を与えた重要な議題が審議された1492年の3月20日の王の諮問会議に、それぞれ要職にあった3人の宮廷ユダヤ人が臨んだことを書いた。1人は新キリスト教徒にして異端審問所初代長官、トルケマダ。もう1人はコンベルソにしてコロンブスの最大の理解者であり影のスポンサー、財務官僚のサンタンゲル。そして最後の1人は同じくコンベルソで諮問委員会の長、タラベーラである。

運命の諮問委員会

サンタンゲルはコロンブスの航海を実現すべく全力で金策に走りながら、ユダヤ教徒追放令の承認を何とか思いとどまらせようと決意して会議に臨んだ。対してトルケマダはユダヤ教徒をイベリア半島から完全に消し去ることこそが、スペインを真の「聖なるキリスト教国家」へと導くという信念をもって臨んだ。そしてタラベーラは、航海と追放の両方に反対すべく臨んだ。事なかれ主義者だったのかもしれない。

サンタンゲルは主張する。「ユダヤ人共同体はまさにその特殊性によってスペイン国に必要であり、彼らは素晴らしい貢献をしている」。対するトルケマダは医学の比喩を用いて言い放つ。「ユダヤ教の掟に従う異端は、キリスト教社会から完全に取り除かなくてはならない『悪性腫瘍』である」と。

サンタンゲルがもし「新キリスト教徒」であるならば、トルケマダと鋭く対立してまでユダヤ教共同体を守ろうとするだろうか。むしろ彼に賛同したはずだ。そして、まだ見ぬ地で邪教に耽る憐れな異教徒に福音を授けて救うべく、コロンブスの航海を支援する。なんの矛盾もない。しかし彼はトルケマダと対立するリスクを取ってでも、追放を思いとどまらせようとした。彼はユダヤ教徒を絶滅から守りたかったのだ。

カスティーリャとアラゴンの連合は「対等合併」ではなかった

筆者は最初からこの両者の対立はサンタンゲルが不利だったと考えている。なぜか。そこには彼らの出自と、アラゴン・カスティーリャ連合王国の複雑な力関係が影響していたはずだからだ。アラゴン・カスティーリャ連合王国は、M&A業界の概念で言えば表向き「対等合併」にも見える。

しかし、両者の力関係で言えば、やはりカスティーリャの方が優位だったと考えるのが一般的だろう。カスティーリャのイザベルと、アラゴンのフェルディナンドが結婚した時、イベリア半島の最大版図を握っていたのはカスティーリャだった。また、イザベルはフェルディナンドの1歳年上で、様々な歴史のエピソードはこの夫婦が基本的にイザベルの「かかあ天下」だったことを強く示唆している。

トルケマダは、カスティーリャ地方のバヤドリッドで生まれ、イザベルに見出されることで出世した。これに対し、サンタンゲルはアラゴン家の宮廷ユダヤ人として頭角を現し、フェルディナンドに重用されることで地位を築いた。

この両者が対立した時、やはりカスティーリャ派のトルケマダが優位になったと筆者は考える。サンタンゲルも早い段階でそう悟ったはずだ。だからこそ、彼はユダヤ人追放令の成立が避けられないと見て、コロンブスの航海実現に賭けたのではないか。

スペインを追放されたユダヤ教徒達が欧州のどこに逃げようとも、キリスト教徒から逃れることはできない。西欧にも、東欧にも、キリスト教徒がいる。そこでまた迫害されるだろう。それは実際その通りだった。追放されたユダヤ人が居住できる「新天地」が海の向こうにあれば、そこで離散ユダヤ教徒達は生活を再建し、安住できるかもしれない。

多くの隠れユダヤ教徒が航海に参加した

コロンブス自身がユダヤ教徒だったという話もあるが、これは都市伝説の類に過ぎないだろう。しかし、コロンブスの航海に参加した船員のうち3分の1が、コンベルソ、または隠れユダヤ教徒だったという分析もある。少なくとも複数人のユダヤ教徒がこの航海に参加したのは歴史的事実だ。

当時、南インドには「グランガーレ侯国」というユダヤ人国家があるという噂もあったという。さらにコロンブスは、行く先で広く普及していたアラビア語の通訳ではなく、ヘブライ語の通訳を帯同させていた。(出所:ユダヤで読み解く世界史 佐藤唯行著)。

こうした状況証拠から見ても、サンタンゲルはコンベルソとして、ユダヤ民族の将来を救うべく、コロンブスの航海に賭けたのだと考えられる。実際にコロンブスが発見した島々の一部(現在のジャマイカ島など)には、のちに多くのユダヤ教徒達が逃れて移り住んだ。

諮問委員会の後に両王は1週間熟考し、そして決断する。3月22日、イザベルはまずタラベーラを解任する。追放にも航海にも反対ばかり。事なかれ主義者は不要だと思われたのだろうか。彼は奪還したグラナダの大司教に任命された。左遷ともいえるし、要職ともいえる。絶妙な人事だ。

3月31日。カトリック両王はユダヤ人追放令に署名する。かつては3宗教の王たることを願っていたフェルディナンドは、最後まで逡巡する。追放令の署名から公表までは、なお1カ月を要した。この1カ月でもし追放を撤回していたら、世界はどうなっていただろうか。もちろん歴史に「たられば」はない。

4月17日。過剰な要求をなかなか引き下げないコロンブスとのぎりぎりの交渉がようやく妥結する。サンタフェ協約が成立した。その詳細は以前のコラムで取り上げた通りだ。

7月31日、ユダヤ人追放令の期限を迎える。改宗を拒んだユダヤ教徒達が、すべての財産を収奪されて難民となった。彼らは主にポルトガルやオスマン帝国を目指す。ジャック・アタリ氏の分析では5万人が残留して改宗し、20万人超がセカンドディアスポラの民となった。

キリスト教社会がユダヤ教徒から収奪した動産・不動産・踏み倒した借金(債務)などの財産総額は100万ドゥカート以上(恐らく現在の感覚では数百億円)と伝わる。サタンの手下ユダヤ教徒は、スペインキリスト教国家に「貢ぐべき存在」であり、その財産を買い叩き収奪することに、だれも罪の意識など持つことはなかっただろう。

航路が開かれ、大航海時代の号砲が鳴った

そして8月3日、コロンブスは3艘からなる貧弱な船団を率いてパロスの港を離れる。船のサイズは現在の屋形船くらいだ。エンジンなどない屋形船サイズの船に帆を立て、風任せで大西洋を渡る。勇敢というべきか、蛮勇というべきか。

しかも、この船は長期航海用に建造させたものではなく、中古の船を改造したものだった。サンタンゲルとコロンブスが必死でかき集めた200万マラベディは、水や食料、船員の雇用手当といった運転資金に充当されて、あっという間に溶けてしまったのだ。新規に設備投資するほどの資金はなかった。

3艘の船のうち2艘は密漁船や海賊船で、両王の命令により供出されたものだ。現物出資に近い。残りの1艘はコロンブスがポケットマネーで買ったようだが、話の真偽と資金の出どころは不明だ。とにかく、コロンブスは15カ月分の食料と6カ月分の水を積んで出発した。バーンレートは15カ月。本当にインドに到達するならこの倍は必要だったが、新天地到達には足りた。

10月12日、コロンブスはサン・サルバドール島を発見、上陸する。西回り航路でインドにたどり着き、香辛料と金を得るという最重要目的は果たされなかった。しかし、それ以上に重大な成果をコロンブスは持ち帰った。航路は開かれたのだ。そして、大航海時代の幕開けと共に中国が世界を支配した時代から、西洋キリスト教社会が世界を支配する時代への「大転換」の号砲がなった。コロンブスは1493年3月13日に帰国。成果に大いに満足した両王はすぐさま第2回航海を認可した。

 第2回航海の資金調達は簡単だった

処女航海は、世界史の転換点となる歴史的成果を成し遂げたが、香辛料を持ち帰ったわけでも、大量の金塊を持ち帰ったわけでもない。コロンブス一行は現地の住人が金の首飾りをしているのを見て、それを言葉巧みに掠め取り「新天地には金がある」という証拠として持ち帰ったに過ぎない。

現代のスタートアップに例えるなら、POC(概念実証)が完了した段階に過ぎない。ここから大きく赤を掘りつつ(赤字を恐れず大型投資をして)死の谷(収益化までの 赤字累積期間)を乗り越え、ビジネスをマネタイズ(収益化)していかなくてはならない。巨額のPre Series Aラウンドを回さなくてはならないのだ。

この資金調達は造作もなかった。スペインはこの時すでに「涼しい顔でじゃぶじゃぶと溶かせる」大量の余剰資金を手に入れていたのだ。もはやいうまでもないだろう。それは追放したユダヤ教徒から収奪した巨額の資金だ。100万ドゥカード以上と伝わるその資金が、コロンブスの2回目以降の航海に投じられた。(出所:アメリカに生きるユダヤ人の歴史 ハワード・モーリー・サッカー著)

サタンの手下、ユダヤ教徒をイベリア半島からイグジット(追放)して得られた巨額の「イグジットリターン」。この資金が世界を福音に帰依させ、邪教に耽る憐れな異教徒を救うための聖なる計画に再投資されたのだ。サンタンゲルがこの2回目以降の航海におけるファイナンスにどの程度関与していたのか、または関与していなかったのかは分からない。恐らく、もはや事業は彼の手を離れていただろう。1498年、彼はその生涯を閉じる。

サンタンゲルは、イエス・キリストがこの世に再臨する時、再び目覚めることを信じ、束の間の眠りについたのだろうか。それとも追放を止めることが出来なかったことを悔恨しつつも、いまだこの世に現れていないメシア(救世主)がいつしか現れ、すべてを救ってくれると信じて、眠りについたのだろうか。彼の家族と後継者は、両王の特例により異端審問から免れた。だが親族の一人はサラゴサで火刑に処せられたと伝わる。

そして、同年の9月16日。大審問官トルケマダもまた、この世を去る。彼はキリスト教徒としての務めを立派に果たし、再臨の日にイエスに会えると信じて、安らかな眠りについたのだろうか。それともまだ、スペインキリスト教社会は「悪性腫瘍」を除去しきれていないと考え、やり残した思いを胸に旅立ったのだろうか。トルケマダの数奇な人生は、様々な戯曲や詩作、そして小説の題材となって、現在も人々に多くの問いを投げかけている。

(この項続く)

文:西澤 龍(イグナイトキャピタルパートナーズ 代表取締役)