【東宝】会社分割が「世界の三船」を生んだ−M&Aシネマ繁盛記

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M&Aで誕生した「東宝」

東宝<9602>の歴史はM&Aの歴史だ。1932年に阪急電鉄の創業者で関西の大実業家・小林一三(いちぞう)氏が東京宝塚劇場を設立、これが「東宝」の語源である。1936年に同社が日本映画劇場を吸収合併、1937年には東京急行電鉄(現・東急<9005>)を立ち上げた五島慶太氏から渋谷・道玄坂にあった東横映画劇場を買収している。

東横映画劇場は、当の小林氏から映画館経営を勧められた五島氏が設立したばかりの会社だった。しかし、同社の経営が予想以上に好調で小林氏が経営する日比谷映画劇場との競合が懸念されたため、五島氏に買収を持ちかけた。五島氏にとっては、おいしいところを持っていかれる迷惑な話だ。

東宝を設立した阪急グループの創業者・小林一三氏(阪急文化財団ホームページより)

が、東急電鉄の前身だった田園都市株式会社の実質的な経営者が小林氏であり、同社子会社の目黒蒲田電鉄に鉄道省の官僚だった五島を招聘したのも彼だったこともあり、買収に応じざるを得なかった。目玉だった映画館を売却した東急は、なんとか収益をあげようと映画制作に乗り出す。これが後の東映<9605>である。東宝のM&Aは東映誕生のきっかけにもなった。

同年、小林氏は東宝映画を設立して映画制作へ進出。本格的な映画づくりのため東宝映画を通じて、トーキー(音声つき)映画技術を手がける冩眞化学研究所(PCL)と同社子会社の制作会社ピー・シー・エル映画製作所、J.O.スタヂオ、東宝映画配給の4社を吸収合併する。

1943年には東京宝塚劇場が東宝映画と合併し、映画の制作・配給・興行と演劇興行を一貫して担う総合エンタテインメント企業へ脱皮した。併せて社名も現在の「東宝」に変更している。

買収で米国の映画制作システムが根付く

米国の映画制作システムを導入したピー・シー・エル映画製作所の影響で、東宝は映画の製作予算と人的資源を一元管理するプロデューサー・システムを採用していた。そのため同社は民主的な社風で知られ、監督や看板スターにすら個室はなく、巨匠と呼ばれる監督も部下の助監督や端役の俳優を呼び捨てではなく、「さん」や「ちゃん」づけで呼んだという。スタッフや俳優も他の映画会社では当たり前だった縁故を廃し、公募で採用したため優秀な人材が集まった。

戦後、会社と労働組合との対立から東宝争議が起こり、1947年に大河内伝次郎氏や長谷川一夫氏、山田五十鈴氏、原節子氏、高峰秀子氏ら人気俳優、黒澤明や渡辺邦男らヒットメーカーだった監督をはじめとする100名を超えるスタッフが組合を脱退し、「新東宝」を設立した。労働争議に伴う会社分割である。

東宝スタジオの壁面を飾る大スター・三船敏郎氏(東宝スタジオホームページより)

有能なベテランスタッフや看板俳優を失った東宝は、若手の俳優や監督を抜擢せざるを得なくなった。ところが、これが「吉」と出る。

三船敏郎氏や久我美子氏、若山セツ子氏ら「東宝ニューフェイス」が、かつての看板俳優を超える人気を集めた。

結局、新東宝は1961年に倒産し、多くの俳優や監督、スタッフは東宝に戻る。同社は1964年にテレビ番組を制作する国際放映として再出発し、2011年にはTOBで東宝の完全子会社となる。

M&Aでシネコン、再開発と事業を革新

戦前から高度成長期までは「娯楽の王様」として君臨した映画だったが、テレビの普及やレジャーの多様化により成長は頭打ちに。映画全盛期だった1960年に7457館あった国内映画館は、バブル崩壊直後の1993年には2割程度の1743館にまで激減した。

東宝はコスト削減と上映作品数を増やすため、シネマコンプレックス(シネコン)業態に参入。1984年に自社が所有する日本劇場(日劇)と、当時の朝日新聞東京本社、松竹<9601>の丸の内ピカデリーを再開発するため、3社共同出資の有楽町センタービル管理を設立。

完成した有楽町マリオンにはTOHOシネマズ日劇、丸の内ピカデリー、丸の内ルーブルの3館全7スクリーンがオープン。合計の座席数は4534席と、同一施設内に入居する映画館の総座席数としては当時の国内最多を誇った。

有楽町マリオンの成功で、東京都内だけでなく地方都市にまでシネコンが相次いでオープン。1995年以降、シネコンのおかげで映画館数は増加に転じ、国内映画産業は息を吹き返す。東宝が仕掛けた合弁によるシネコン参入が日本の映画界を救ったのである。

東宝は2003年に外資系シネコンのヴァージン・シネマズ・ジャパンを買収して、同社をTOHOシネマズに社名変更した。2006年には東宝の映画興行部門を会社分割し、TOHOシネマズに承継。国内シネコンでは2013年にワーナーマイカルとイオンシネマズが経営統合して誕生したイオン<8267>系のイオンシネマに次ぐ第2位の大手となっている。

一方、都心の一等地に数多くの劇場や映画館を抱える東宝は、有楽町マリオンの成功を受けて都市中心部の再開発にも商機を見出す。2008年に東宝は当時9.47%を出資していたコマ・スタジアムを、TOB株式公開買い付け)により完全子会社化すると発表した。

「新宿コマ劇場」を運営するコマ・スタジアムは観客動員の減少が続き、業績不振に陥っていた。2005年には「梅田コマ劇場」を売却し、大阪での劇場経営から撤退。残る新宿コマ劇場で動員数回復を目指したものの、2008年3月期決算で2期連続の大幅な営業赤字を計上する。

そこでコマ・スタジアムは東宝の完全子会社になることで新宿コマ劇場を閉館し、建物の敷地を所有する東宝と合同で跡地の再開発に取り組むことにした。東宝は都内繁華街では希少な大型物件である新宿コマ劇場の再開発で、ビジネスチャンスの拡大を狙った。

コマ・スタジアムに対するTOBの買付価格は1株あたり7400円と、発表前営業日の終値1545円に対して約379%ものプレミアムを加えている。TOBの買付予定数は105万1348株で、買付額は77億7000万円に上った。それほど新宿コマ劇場の再開発に賭けたのである。

同劇場の再開発で2015年に誕生したのが、実物大のゴジラ頭部の模型「ゴジラヘッド」がシンボルの、映画館・ホテル・飲食・物販などの施設を備えた「新宿東宝ビル」だ。M&Aがなければ、新宿の新たな賑わい拠点となる再開発も実現しなかった。

新宿コマ劇場跡地の再開発事業で建設した映画館・ホテル・飲食・物販複合施設の新宿東宝ビル(同社ホームページより)

東宝はM&Aで誕生し、M&Aで数々の危機を乗り越えてきた。これからもM&Aで映画顔負けの劇的な事業展開を繰り広げることになるだろう。

関連年表

主な出来事
1932  小林一三氏が(株)東京宝塚劇場を設立
1936 旧・日本劇場を所有する日本映画劇場(株)を吸収合併
  東宝映画配給(株)を設立
1937 (株)東横映画劇場を合併
  東宝映画(株)を設立
  東宝映画を通じて、(株)写真化学研究所、(株)P・C・L製作所、(株)j・Oスタヂオ、東宝映画配給(株)の4社を吸収合併
1938 旧・東京會館を所有する帝国劇場(株)を合併
1943 東宝映画を合併し、映画の製作、配給、興行および演劇興行の総合的一貫経営を行うこととなり、社名を東宝(株)に改称
1945 (株)梅田映画劇場および(株)南街映画劇場を合併
1947 東京會館を分離独立
1949 東京・大阪・名古屋証券取引所に上場
1950 (株)帝国劇場を設立
1954 「七人の侍」「ゴジラ」公開
1955 帝国劇場を合併
1965 新・帝国劇場の建設にあたり、新たに(株)帝国劇場を設立
1984 旧・日本劇場跡地に有楽町センタービル(有楽町マリオン)竣工
1987 旧・日比谷映画劇場、有楽座(2代目)跡地に東宝日比谷ビル(日比谷シャンテ)竣工
2000 旧・東京宝塚劇場跡地に東京宝塚ビル竣工
2003 ヴァージン・シネマズ・ジャパン(株)を買収し、TOHOシネマズ(株)に社名変更
2006 映画興行部門を会社分割し、TOHOシネマズに承継
2008 TOHOシネマズが興行会社の東宝東日本興行(株)、中部東宝(株)、東宝関西興行(株)、九州東宝(株)を吸収合併
  (株)コマ・スタジアムを連結子会社化
2009 札幌公楽興業(株)および新天地(株)を吸収合併
2011 国際放映(株)を完全子会社化
2013 東宝不動産(株)を完全子会社化
  東宝東和(株)を完全子会社化
2014 コマ・スタジアムを吸収合併
  三和興行(株)を吸収合併
2015 新宿東宝ビル竣工
2017 東宝不動産(株)を合併
2019 東宝は、催事企画・運営の日本創造企画(株)を買収し、子会社で舞台・テレビ美術のデザイン・製作などを手掛ける東宝舞台(株)と12月1日付で合併

文:M&A Online編集部

この記事は企業の有価証券報告書などの公開資料、また各種報道などをもとにまとめています。