「通天閣」は誰のものか|産業遺産のM&A

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通天閣…大阪市浪速区

大阪のシンボル・通天閣。現在の通天閣は2 代目で、1956年10月に開業した。2代目の竣工から60年以上が経ち、古きよき大阪・新世界の歓楽街とも妙にマッチし、一方で、あべのハルカス(地上60階、高さ約300メートル)をはじめ周辺には高層ビルが林立し、見下ろされる存在になっていることに親しみを覚える。

猥雑ななかにも郷愁ただようノスタルジックな空間にそびえ立つ通天閣は、2003年4月に大阪市都市景観資源に指定され、2007年5月には国の有形登録文化財に指定されている。

凱旋門の上にエッフェル塔が立つ……初代通天閣

初代の通天閣が建てられたのは1912年。1903年、第5回内国勧業博覧会が大阪で開催され、その跡地を利用して当時の土居通夫大阪商工会議所会頭(第7代)の発案のもとに建設された。

土居は「何か奇抜なものを!」と構想し、パリの凱旋門の上にエッフェル塔を乗せたようなタワーを提案した。周囲の有力者は「そんな、アホな!?」と猛反対したが、その猛反対を押し切って建設したという。

当時は約75メートルの高さがあり、東洋一のタワーだった。通天閣の一帯は新世界ルナパークとして開発され、ルナパークと通天閣の間にロープウェーが通っていた。まさに浪速の娯楽の殿堂だったのである。

ルナパークの開発は土居が代表を務め、地元財界人有志に資金を募って設立された大阪土地建物という会社が行っている。その経緯からすると、初代通天閣の所有者は大阪土地建物及び代表の土居だった。

だが30年余りのち、思わぬところから買収の伏兵が現れた。吉本興業、現在の吉本興業ホールディングスである。吉本は1912年から寄席経営を始め、1910年代半ばには次々と寄席を買収し、1933年にはそれまで「萬歳」と呼ばれていた芸能を「漫才」と親しまれる読み方で普及させ「大衆芸能において“天にも通じる娯楽の殿堂”」をめざしていた。

おそらく、大阪の街に奇抜な娯楽を求めた土居と通じるところがあったのかもしれず、また、吉本と通天閣が“同い年”であったことを意気に感じたのかもしれない。

買収の経緯は定かではないが、1938年に吉本の創業者であり興行師でもあった吉本せいが買収した。金額は30万円ほどだったとされる。吉本は新世界の地に劇場や寄席、演舞場をつくり、通天閣と新世界はさながら“吉本王国”になっていった。

だが、その通天閣も第二次大戦中に解体の憂き目に遭う。通天閣の真下にあった映画館の火災で、通天閣の脚部の強度不足が明らかになったからだ。鉄材を軍部に提供するという名目のもと、1943年2月に解体された。浪速のまちと地域住民の心には、ポッカリと穴が空いたような虚しさが漂った。

2代目通天閣の誕生

2代目通天閣が建設されたのは、初代通天閣の解体から13年後の1956年10月のことだった。高さも初代より30メートルほど高く、103メートルとなった。

再建したのは通天閣観光という会社である。通天閣がなくなり戦禍に荒んだ新世界の復興を願い、1954年に新世界の町会組織の役員らが創立事務所を設置した。再建を目指した当初は、「大手企業のバックアップもない状態で実現できるわけがない」と呆れた人も多かったようだ。だが、地元有志からの出資も募り、通天閣観光という会社を創業した。

そして通天閣が奥村組の手によって竣工する。建築費は総額で3億円を超えた。この再建の経緯を見ると、現在の通天閣の所有者は通天閣観光であり、また、新世界を中心とした浪速商人、地元住民の有志ということにもなる。浪速の趣味と実益、公共性を兼ね備えた施設だったのである。

通天閣を支えた広告スポンサーの存在

厳密な意味では所有者とはいえないが、展望・眺望・娯楽といった要素が強く、電波の中継地など、いわば明快な建設目的を持たない通天閣は、実質的に建設費や建設後の運営費をまかないにくいのも事実だ。その資金繰りに苦慮した通天閣の運営を支えたのが「広告収入」であった。広告スポンサーも通天閣にとっては重要な存在であり、一際輝きを放つタワー広告は、東京タワーやスカイツリーにはないものである。

再建時にはスポンサー探しに苦慮した。建設費の借入れを広告費の先払いで充当したいと考える通天閣側と在阪の大手企業の交渉では折り合わず、企業側は難色を示した。その過程で手を挙げたのは、東京の日立製作所だった。

日立がメインの広告スポンサーになったとき、在阪の大手企業は「大阪のタワーになぜ、関東・東京の企業が……『そんな、アホな!?』」と呆れたり、悔しがったりしたという。

当時、日立は白黒テレビの第1号機を発売し、家電事業にも本格的に参入、松下電器産業(現パナソニック)を筆頭に“家電王国”といわれた大阪・関西市場への浸透も図っていた。

1957年、日立が広告を掲げる

資金繰りに苦慮する通天閣と、市場開拓をねらう日立の思惑が一致した。1957年7月、日立は通天閣の側面を占拠するかのような広告を掲げ、夜には煌々とネオンを輝かせた。新世界の街並みは、まるで悲願を達成したかのような感動に包まれた。

鮮やかに際立つ広告のネオンはオイルショック最中の1974年に国の省エネ指導により消灯したが、地元住民と日立の署名活動により再点灯した。広告ネオンはおよそ5年ごとに更新され、LED化されるなど、2017年時点で13代目となっている。12色でのライトアップが可能となり、1年通じてより多彩な表現が行えるようになっている。

通天閣の側面のうち西面は通天閣と日立が広告契約を結んだ当初から、公共面と位置づけられているという。そのような公共性も、大阪の新型コロナ感染症の状況をネオンで示すために利用されている背景にあるだろう。

文:菱田秀則(ライター)