としまえん きみはあの機械遺産に乗ったか|産業遺産のM&A

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精巧な美術工芸としての輝きを放つカルーセル・エルドラド

東京・練馬区にある遊園地「としまえん」が2020年8月末日をもって閉園になる。以降、土地や施設はどのような使われ方をするか、2020年7月時点では正式発表はない。だが、1926年9月「練馬城址 豊島園」として開園してから約100年の歴史を誇る老舗遊園地だけに、閉園を惜しむ声は多い。

黄金郷に舞い回るメリーゴーランド

このとしまえんには2010年、機械遺産に認定された遊戯施設がある。「カルーセル・エルドラド」という回転木馬(メリーゴーランド)だ。1907年に製造。カルーセルとはフランス語で回転木馬のことであり、エルドラドはスペイン語で黄金郷。ヨーロッパ由来の遊戯施設である(以後、本記事では回転木馬、メリーゴーランド等をカルーセルと表記する)。

製作者はドイツの機械技師ヒューゴー・ハッセ。製造された当時は「トロットワール・ルーラン(動く歩道)」と呼ばれていたという。定番の木馬をはじめ、豚やゴンドラ、馬車などはすべて手彫りされたもの。天井を彩る女神や天使などの装飾とともに、精巧な美術工芸としての輝きを放っていた。

ヒューゴー・ハッセはもともと蒸気機関の整備士で、カルーセルを蒸気で動かす仕事を請け負っていた。それがきっかけでカーニバル業、遊園地業に進出し、数々の遊戯施設を開発した。その名声は欧米中に広がり、「遊園地業の王様」とも呼ばれるようになった。

ところが、1900年代初頭のヨーロッパでは第一次大戦の足音が忍び寄っていた。1911年、ヒューゴー・ハッセはカルーセル・エルドラドをアメリカ・ニューヨークの遊園地に移すことにした。この頃から、このカルーセルは「エルドラド」と呼ばれるようにもなったようだ。見る者、乗る者に幸せをもたらし、まるで黄金郷にいざなうような美しさだったのだろう。

日本でもカルーセルの人気はうなぎ上りだった。日本で最初にカルーセルが登場したのは1903年、大阪で開催された内国勧業博覧会で、だった。日本で最初の常設カルーセルは1918年、東京・浅草の木馬館という遊戯施設に設置されたものとされている。ちなみにカルーセルの発祥はフランスで、1860年頃といわれている。フランスの騎馬隊が馬術練習のためにつくったものが原型である。

海を渡った木馬たち

独・米・日などで110余年、多くの家族づれ、カップルなどの夢を乗せて回り続けた

 欧米でも日本でも人気を博したカルーセル。ところが、カルーセル・エルドラドが設置されたニューヨークの遊園地は1964年に閉園を迎えた。このときカルーセル・エルドラドも解体されたが、そのニュースを聞きつけた日本の企業があった。それが株式会社豊島園だった。当時は「技術の粋を極めた世界一のカルーセルが太平洋を渡る!」ということで、ニューヨークタイムズをはじめ日米のマスコミもセンセーショナルな記事として取り上げた。

そんなカルーセル・エルドラドがとしまえんで復元され、遊戯施設として息を吹き返したのは1971年4月のこと。日本に現存するカルーセルとしては最古の施設である。1985年頃にはニューヨークから返還してほしいとの申し出もあったようだ。カルーセル・エルドラドは、日米間の様々な交渉を経つつ、遊園地に遊びにくる家族連れ、カップルを黄金郷へといざなった。その間、カルーセルは改良を重ね、どこの遊園地にもなくてはならない遊戯施設の1つとして育っていった。

回転する木馬や馬車のように変わってきた経営主体

閉園・解体を控えたカルーセル・エルドラドには、どこか哀愁も漂う

カルーセルに象徴されるように、というと後づけになるが、カルーセル・エルドラドをシンボルとするとしまえんの経営も実は二転三転してきた。

閉園前の経営主体は株式会社豊島園。西武鉄道<9002>が100%出資する西武グループの会社である。所有者が西武鉄道で、(株)豊島園にはその運営業務を委託されている関係だろう。

もともと、としまえんは室町時代に築かれた練馬城の城址だったといわれる。その後、明治後期に豊島公園として整備され、大正期にはとしまえんの創業者である藤田好三郎が自邸を建てた。藤田は、のちに王子製紙となる樺太工業に役員として勤めていた実業家で、藤田はさらに周辺地域を購入していった。そして、造園家の力を借りて開園したのが「練馬城址 豊島園」だった。

だが、昭和期に入り、としまえんは現在のみずほ信託銀行の前身である安田信託銀行に売却された。以後、としまえんは安田家の私邸になり、その経営者も転々と変わっていった。

西武鉄道の〝遊具〟に!?

西武鉄道<9002>がとしまえんの経営に乗り出したのは1941年のこと。当時、西武鉄道は武蔵野鉄道と称し、としまえんを経営していた日本企業という会社を合併したことによる。

第2次大戦下、としまえんは閉園となったが、1946年に営業が再開された。1951年には経営主体である(株)豊島園を解散して西武鉄道が事業を引き継ぐことが決まった。だが、実際に(株)豊島園が解散し、その事業の継承を西武鉄道が始めたのは決定から10年以上経った1963年のことだった。

西武鉄道は1970年代に遊園地の関連事業を営むワンダーズという会社を設立し、同時期に遊園地資産の保有会社である武蔵野地所という会社を設立した。この武蔵野地所が新たに(株)豊島園を設立し、遊園地運営に当たらせた。ちょうど、カルーセル・エルドラドが稼働した頃、としまえんを運営する(株)豊島園は、西武鉄道の“意思決定の荒波”に揉まれていたことになる。

 2000年代初頭のM&Aは“第2波”の荒波か?

2000年代に入り、としまえんの経営主体が再び目の回るようなスピードで変わっていった。2004年に西武鉄道はワンダーズの事業を武蔵野地所の子会社である(株)豊島園に移し、同時期に(株)豊島園の従業員を西武鉄道のグループ会社であるインターベストトレーディングに転籍させた。と同時に、インターベストトレーディングが遊園地の運営を受託することになった。

そして、ワンダーズは結局解散し、(株)豊島園は武蔵野地所を合併し、商号としては武蔵野地所を名乗るようになる。存続会社を(株)豊島園としつつも、武蔵野地所が解散し、商号としては(株)豊島園を改称して武蔵野地所を名乗る、第2会社方式による事業再生のような、いささかアクロバティックなM&Aである。一方で、インターベストトレーディングが(株)豊島園に改称した。そして、2010年に武蔵野地所は西武鉄道に吸収され、解散することになる。

カルーセルは周回すれば必ずもとの位置に戻る遊戯施設である。この時期、豊島園の経営主体はまるでカルーセルに乗ったかのように、ぐるぐると回っていた。

としまえんはプールや園内鉄道には日本初、世界初の遊戯施設もあり、まさにプールの聖地、軌道の宝庫とも称される遊園地である。広告も奇抜、斬新で注目を集めた。だが、2010年頃からは、敷地も公園も、東京都やJリーグ、ワーナー・ブラザーズなどが買収する噂が立っては消えていく。話題を集め続けたとしまえんだが、その運営はかなり西武グループに振り回された感も否めない。まさに、としまえんそのものがカルーセルであるかのように……。

文:M&A Online編集部