「太地水産共同組合と太地漁業」 鯨漁の聖地に花開いた“時限会社”|産業遺産のM&A

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百余年の歴史を持つ太地水産共同組合事務所(和歌山県東牟婁郡太地町)

房総半島の千倉(千葉県南房総市)などとともに、“鯨漁の聖地”といわれる和歌山県太地町。太地水産共同組合の事務所は、その太地町の漁港にひっそりと建っている。

大正期の1918(大正7)年に建てられ、床面積は120平方メートルほどで、木造平屋建ての瓦葺屋根。一見したところ、古い平家の建物という印象しかない。確かに、天井裏にも窓があり、周囲に庇を回した全景は、周囲の住宅や漁港の倉庫などとは趣が異なり、特異な景観を呈しているといえなくはないが、目立つものではない。

だが、太地水産共同組合事務所はれっきとした登録有形文化財であり、文化庁に文化遺産として登録されている建造物である。加えて、同共同組合事務所は太地町の捕鯨文化に関する古くからの資料を大切に保管してきた。

「協同組合」ではなく、「共同組合」を称する

組合の設立は大正期、1916年5月のことだ。太地(当時は太地村。町制が敷かれたのは1925年のこと)は東に太平洋の大海原を望み、捕鯨をはじめ漁業などで諸外国との交流もあった“開かれた地”だった。そのため、組合の設立当初は地元漁民のほかに社会主義運動に深く関わった人、海外で民主主義に触れて帰国した移民らも組合員には多かったようだ。南紀の漁村において、いわゆる大正デモクラシーを象徴する建物であり、組合だったのかもしれない。

だからこそ、地域の漁師の協同組合組織を超え、異文化体験のある人材などさまざまな人材が同じ立場や資格で事業を推進し、地域に貢献することが大切だと考えた。それが「協同組合」ではなく、「共同組合」と称する由縁だとされている。

太地では、明治期の終わり頃には村の東端にある灯明崎の沖合で、大型の定置網漁を営み、利益を上げていた。鯨漁をはじめ、ブリ、サワラなどを狙った定置網漁を行っていた。

1世帯1株という画期的な組織をつくる

その中心人物が組合の初代理事長となった日下生甚蔵や次代の理事長となった庄司楠五郎といった人物であった。今日から見れば社会主義的な面も感じられるが、彼らは大正期の漁村としては画期的な組織をつくった。太地水産共同組合を村の共同事業にするために1世帯(村民世帯主)1株という規約をつくり共同組合の運営をスタートさせたのである。

当時の組合規約には、第1条で「本組合は漁業を営み、組合員の共同の利益を計るとともに、本村経済を援助するを以て目的とする」とし、また、15条、16条、28条で「権利義務、議決権、出資は各自平等」とし、個人の営利や配当をできるだけ排し、平等互恵の立場から太地全体の福祉をはかる趣旨から、資金の運用に関する各種の規定が盛り込まれた。

この組織は今日から見ると、太地の漁民・村民全世帯が全員、株主となった株式会社である。太地水産共同組合が発足した翌年の水揚高は9万2589円。3万2000円の純益を上げ村民各戸へ5円の配当を行い、村財政へ3000円の寄付を行った(『移民母村の漁業構造と人口問題 : 和歌山県東牟婁郡太地町の実態調査報告(2)』、市原 亮平、關西大學經済論集、1960より)。その利益は町や社会団体に還元され続け、村の発展にも大きく貢献した。

村や各種の団体も、その寄付等に応えた。共同組合事務所の屋根裏に数多くの感謝状が保管されていたが、それは同組合から寄付を受けた自治体、内外のさまざまな団体から贈られたものである。

大敷網の経費負担が重くのしかかる

太地の漁業も太地水産共同組合の事業も、ずっと右肩上がりを続けたわけではなかった。村の有志はもちろん、全村民が参加した社会主義的イデオロギーのもとの事業だっただけに、組合内部に意見の違いから不協和音が流れ、内紛となったこともあったようだ。

組合事業の財務としては、特に、定置網の一種とされる大敷網の経費負担が重くのしかかっていた。おおむね三角形をした細かい網地からなる身網(袋網)と、身網へ誘導するあらい網地の垣網からなる構造をした大敷網は、一網打尽に魚が取り込みやすい半面、魚を逃がしやすい面もあった。大敷網による漁は業としては経費がかさみ、経営効率に欠ける面もあったのである。

太地水産共同組合は、その経費がかさむ大敷網での漁業権を1922年に当時の漁業組合に返上した。漁業権の譲り渡しは、漁業においては死活問題となる。大正デモクラシーにおける“平等の弊害”ということもできなくはないが、同共同組合はそれほどに資金に窮していたのかもしれない。

太地漁業という10年限定の株式会社

漁業権を譲り受けた漁業組合は、その権利を有効活用し、太地漁業という株式会社を設立した。この太地漁業で活躍したのが、ニシンやサケの水産加工業で一旗揚げた向井兵輔という人物だった。向井兵輔率いる太地漁業は、創業後順調に実績を伸ばしていった。

だが、大敷網での漁業権の契約期間は10年と決まっていた。太平洋を股にかけて活躍する海の男たちにとって、10年はまたたく間に過ぎた。

10年の契約期間満了のときである。向井兵輔はあっさりと太地漁業を解散し、その漁業権を太地水産共同組合に戻した。

現在、太平洋に臨む灯明崎から南の梶取崎につながる段壁沿いには、風光明媚な灯台のほか鯨漁や移民との交流などを顕彰する碑や施設などがある。太地漁業で活躍した向井兵輔(向井翁)の碑も、灯明崎の近くにある町立太地中学校の一角にひっそりと建っている。

太地町は現在、全国で最も女性の比率が高い市町村の一つとして知られているが、その海の女に支えられ、板子一枚下に地獄を見る海の男たちは、潔い企業経営に乗り出していたのである。

文:菱田秀則(ライター)