【荘内銀行】東北の金融再編は、道半ば?| “ご当地銀行”の合従連衡史

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2017年9月に荘内銀行がネーミングライツを獲得し、「荘銀タクト鶴岡」と命名された鶴岡文化会館(山形県鶴岡市。photo by Mugimaki / PIXTA)

山形県鶴岡市に本社を置く荘内銀行は、同県の日本海に面した庄内地方を営業基盤としている。その創立は1878(明治11)年12月、第六十七国立銀行の創業にさかのぼる。山形県では唯一、国立銀行を前身とした銀行であった。

ちなみに「荘内」はかつてこの地域にあった遊佐、大泉、櫛引の三大荘園のうちで最も栄えた大泉荘に由来するのが定説とされ、この「荘園の内側」を示す言葉とされる。それが、のちに「庄内」と呼ばれるようになったようだ。いまは汎地域名を示す場合は「庄内」が一般的だが、団体名や企業名では固有名詞として「荘内」を使うケースも多い。

戦時下の銀行統合により、荘内銀行として誕生

第六十七国立銀行は創業の約3年後の1881年1月、県内の第百四十国立銀行を合併し、創業20年後に国立銀行としての営業年限が切れたあとは六十七銀行として営業を続けた。そして1941(昭和16)年4月、六十七銀行、鶴岡銀行、風間銀行、出羽銀行の4行が合併して荘内銀行が創立した。第2次大戦下の一県一行主義のもとに統合され、誕生した銀行である。

荘内銀行は以後も地場の金融機関として、積極的にM&Aを推進してきた。同年12月には新庄銀行の営業を譲り受け、1943年10月には荘内貯蓄銀行を吸収合併している。

なお、荘内銀行では1942年4月に安田銀行の鶴岡支店・酒田支店の営業も譲り受けている。安田銀行は戦前、安田財閥の中核企業であり、のちの富士銀行からみずほ銀行につながっていく大手行だ。

「その安田がなぜ、荘内に営業を譲るの?」と思うかもしれないが、安田財閥の2代目善次郎のもとに、荘内銀行の実権を握っていた庄内藩主・酒井家の女性が嫁いでいる。このように女性の嫁ぎ先を通して培った共同体・勢力を閨閥と呼ぶケースもあるが、安田銀行・財閥の安田家と荘内銀行の酒井家にはそのような縁があったようだ。荘内銀行は1961年8月には富士銀行米沢支店の業務を継承している。

1996年には東邦銀行(福島県)の山形支店の営業を譲り受けた。1999年5月には、仙台銀行(宮城県)の山形支店の営業を譲り受けている。

庄内地方に強固な営業地盤を持つ荘内銀行は、金融関連事業を事業部門や別法人として設立しグループ化する一方、山形県の県庁所在地、山形市については隣県地銀の山形支店の営業を譲り受けることで地盤を拡大していった。

白紙撤回となったミライオン銀行構想

荘内銀行は1999年12月、山形市に本店を置いていた殖産銀行と合併構想を発表した。新銀行の名称は「ミライオン銀行」であった。

ところが合併比率や勘定系システムの統一などについて殖産銀行側が反発、両行の間に不協和音が流れ、経営統合は白紙撤回することになった。両行とも「この金融統合の未来には乗れない」と判断したわけだ。

白紙撤回の一方の当事者である殖産銀行は当面は独立した事業運営を行うこととなった。だが白紙撤回から約5年後、第二地銀の「山形しあわせ銀行」と経営統合することとなり、2007年には「きらやか銀行」となっている。

北都銀行と経営統合し、フィデアHDを発足

荘内銀行は、新たな金融統合の道を探った。そして2009年10月、北都銀行(秋田県)と経営統合し、共同持ち株会社「フィデアホールディングス(HD)」<8713>を設立した。持ち株会社傘下に荘内銀行と北都銀行が収まったかたちである。

そのフィデアホールディングスは荘内(庄内)色・秋田色、いわゆる地場にめっぽう強いという印象を抑えるためか東北の中核都市・仙台に本拠を構え、着実に地歩を固めてきた。そのうえで、2021年7月に東北銀行(岩手県)と経営統合を果たすべく基本合意した。経営統合のメドは2022年10月であった。ところが、フィデアホールディングスは2022年2月に、東北銀行との経営統合を白紙撤回すると発表している。

“石橋を叩いて渡らないか、壊してしまう”ような東北人の慎重な気質の表れというと短絡的でお叱りを受けるかもしれないが、基幹系システムで全国の主要地銀40行がクラウドによるシステムの大合同を検討するなか、東北の金融再編はいまだ道半ば、である。

文・菱田秀則(ライター)