【仙台銀行】 “県内特化”からの脱皮は不可欠か?|“ご当地銀行”の合従連衡史

alt
「杜の都・仙台」にふさわしく、並木に囲まれた仙台銀行本店(仙台市青葉区、photo by ビースタイル)

仙台銀行ときらやか銀行を傘下に擁する「じもとホールディングス」が業績の大幅な下方修正するなど苦境に立たされている。2023年3月期の当期純利益は40億円の赤字(25億8500万円)に転落する見通しだ。傘下の仙台銀行としても穏やかではないはずだ。

きらやか銀行と「じもとHD」を発足

仙台市青葉区に本店を置く第二地銀の仙台銀行は、2012年に新たな一歩を踏み出した。隣県の山形県山形市に本店を置く第二地銀のきらやか銀行と経営統合し、じもとホールディングス(HD)<7161>という金融持ち株会社を設立、きらやか銀行とともにその傘下に入った。本社を仙台銀行本店に置いた。

じもとHDはスタート時点から“難産”であった。本来は2011年に金融持ち株会社を設立する予定だったが、東日本大震災が東北の太平洋岸を襲ったのだ。この影響が大きく、金融持株会社の設立を1年延期した。

じもとHDは2020年、今度はSBIホールディングスとの資本業務提携を発表した。SBIは中間持ち株会社のSBI地銀ホールディングスを通じて、じもとHDに約35億円を出資し、約17%の株式を保有する筆頭株主となった。運用資産の受託(資産運用の高度化)によって、じもとHD傘下の各銀行の収益力強化などを目的としている。資本業務提携はSBIが進める「第4のメガバンク構想」の一翼をなすものだが、この効果については、現在のところ評価が分かれているようだ。

実際、じもとHD傘下のきらやか銀行では、2022年5月に金融庁への公的資金の申請について検討を開始した(2022年11月段階で継続して検討中)。新型コロナウイルス禍で疲弊した地域経済を支えるための、コロナ特例の活用による資本増強策という面もある。

県の出資で生まれた無尽会社

仙台銀行の歴史を振り返っておきたい。前身は1951(昭和26)年に創業した振興無尽にさかのぼる。振興無尽は第2次大戦後という比較的遅い時期に誕生した無尽会社。当時の宮城県知事が金融機関の設立を提唱し、県が資本金の40%を出資して生まれた会社である。創業の翌1952年には、相互銀行法の施行により振興相互銀行に改称している。

振興相互銀行は1989年、全国規模で行われた相互銀行の普通銀行への転換期に仙台銀行へと改称・普銀転換し、現在に至る。無尽発足から今日まで、大きなM&Aは1つだけ行われた。

そのM&Aが経営破綻した徳陽シティ銀行からの営業の譲り受けだった。1998年に19店舗を譲り受けた(うち2店舗を統合)。

仙台市を地盤とする徳陽シティ銀行は1942年に太洋無尽と東北無尽、さらに宮城無尽の3つの無尽会社が合併して誕生した三徳無尽が前身である。三徳無尽は1951年に徳陽相互銀行となり、さらに1990年に徳陽シティ銀行として普銀に転換、その後、多額の不良債権が発覚するとともに経営が悪化、1998年には営業を終了し、1999年には解散した。

宮城県“生粋”の対応で脇を固めたが…

徳陽シティ銀行からの営業の譲り受けは、仙台銀行として業容拡大の足がかりともなった。このとき、仙台銀行は他の第二地銀とは少し異なる戦略をとった。営業基盤を拡大するといっても隣県の主要都市などに支店や営業所を持とうとはせず、むしろ、県内に的を絞った営業展開を進めたのである。

徳陽シティ銀行の営業を譲り受けた翌1999年、山形市にあった山形支店を荘内銀行に営業譲渡している。また、2003年には大東銀行(本店は福島県郡山市)仙台支店の営業を譲り受けている。仙台銀行は、拡張し得る可能性のあるときに、あえて脇を固めた。また、それは県出資で生まれた無尽、県内の法人・個人の資金需要に対応することを第一に考える創業の精神が強く生かされての対応かもしれない。

その仙台銀行が10年余りのちの2012年に、じもとHDの傘下で事業を進めることになった。仙台銀行としてはあくまで地元宮城県生粋の銀行であることを堅持するとともに、東北最大における第二地銀の雄、きらやか銀行とタッグを組み、金融激変の荒波を挑むことになった。だが、令和の時代に入り、その前途はより厳しいものになってきた感がある。

文:菱田秀則(ライター)