「サッポロビール博物館」赤レンガ異聞|産業遺産のM&A

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サッポロビール博物館(札幌市東区)

2030年の北海道新幹線延伸に向けて再開発の進むJR札幌駅の周辺。サッポロビール博物館(札幌市東区)は、そのJR札幌駅から東に1駅、JR千歳線「苗穂駅」の北口に建つ広大な産業ミュージアムである。

工場見学ができるビール工場、飲料工場は日本各地に点在するが、サッポロビール博物館は明治初期、1876(明治9)年の北海道開拓事業から受け継がれるサッポロビールの歴史も体感できる日本で唯一のビールに関する博物館である。

現在、サッポロビール博物館は東京・恵比寿に本社を置くサッポロビールの所有だが、同社の歴史のみを紹介する企業博物館とは少し趣が異なる。同社の歴史を中心としながら、北海道のビール産業史の全体像を紹介する博物館として知られている。

製糖(ビート糖)工場を買収した札幌麦酒

赤レンガの巨大な建物は、もともと1890年に札幌製糖株式会社のビート糖工場として誕生した。赤レンガ建造物として有名な北海道庁の旧本庁舎が1888年の竣工だから、同時期に建てられたことになる。

その赤レンガ建造物を現在のサッポーロビールの前身である札幌麦酒が1903年5月に買収した。札幌麦酒は、製糖工場をビールの原料となる大麦を麦芽にする製麦所として改修する。操業開始は1905年4月。約60年間、製麦所として操業し、閉鎖されたのは1965年1月のことである。そして約20年後の1987年7月、サッポロビール博物館としてオープンした。

北海道のビート製糖をめぐるクラークVS.ダンのバトル!?

サッポロビール博物館のもとである札幌製糖とはどのような会社だったのか。

北海道大学の前身である札幌農学校の教頭であり、札幌赴任前はマサチューセッツ農科大学の学長であったウイリアム・クラークは同大学が全米一の製糖技術を擁することに誇りを持っていた。そしてクラークは明治初期、北海道赴任にあたり、北海道でもビート栽培を定着させたいと目論んでいた。1878年には札幌農学校にビート栽培を依頼、20トンの収穫を挙げる。これが道内初のビート生産記録であった。

また、クラークの勧めで官営製糖工場の誘致運動を展開していた紋鼈(もんべつ、現北海道伊達市)では1879年に製糖所が建設され、1887年には官営紋鼈製糖所は民間に払い下げられた。これに刺激され、1888年に苗穂村(現札幌市東区)に設立されたのが札幌製糖だった。

だが、「ビートは収益性がない」と、この製糖工場の動きに異を唱えていた人物がいた。北海道における畜産・酪農業の発展に大きく貢献したエドウィン・ダンである。

明治期、開墾の進む北海道ではアメリカから“お雇い外国人”として多くの技師らを招聘していたが、道の寒冷地畑作農業として新しい作物であるビートを導入するかどうか。当時は合衆国農務局長を辞職して来道し、北海道の道路建設、鉱工業、農業、水産業など、開拓のほぼ全領域にたずさわったホーレス・ケプロンやクラークを中心とするビート導入積極派と、ダンや札幌農学校教師のウィリアム・ブルックスなどの反対派に分かれていた。

札幌製糖はビート導入積極派に倣い、製糖に取り組んだ。だが、その操業は希望的・楽観的な取り組みだったこともあり、結局はうまくいかなかった。その状況のなかで札幌麦酒が買収し、札幌製糖はフル操業も果たせぬまま閉鎖、解散の憂き目を見た。

北海道でのビート製糖の歴史は札幌製糖をはじめ、いくつかの製糖工場が閉鎖されてからも連綿と続いている。札幌麦酒の製麦所が本稼働した翌年の1906年、北海道農事試験場がビートの品種試験を始めている。そして1910年、その品種試験等を拡充した。そこには「北海道の寒冷地畑作農業にビートは欠かせない」という行政の判断があった。

「取り壊し」か「重文指定」か

製麦所としては閉鎖された翌1966年、サッポロビールは創業90周年を記念して「開拓使麦酒記念館」をオープンした。サッポロビール博物館の前身である。だが、建物そのものは老朽化が顕著になっていた。「取り壊すべきだ」という声も上がったという。

ところが一方で、「歴史的な建物が後世に残すべきだ」という機運も高まっていた。そこで1987年に建設当時の面影を活かし、内部および周辺を改装整備してオープンしたのがサッポロビール博物館である。

1990年代には、この赤レンガ建物を国の重要文化財に指定したいと文化庁がサッポロビールに持ちかけている。だが、サッポロビール側としては辞退した。

歴史ある建造物を一私企業の占有物とは考えない民間企業の姿勢の表れか、国策に翻弄されたビール業界の反骨心の現れかなど真意は定かではないが、確かに国の重文に指定されると、改修・改装にも国の許可を受けなければならない。それはサッポロビール博物館を訪ねてくる多くのお客のためになるとは言いきれず、面倒なことでもあっただろう。

一時期、商標を消されるも、北海道民の意気に支えられたブランド

サッポロビール博物館の歴史コーナーを見ていこう。1876年にサッポロビールが開拓使麦酒醸造所として設立され、「冷製麦酒」の製造を開始、1887年に大倉財閥の創始者・大倉喜八郎や渋沢栄一らが札幌麦酒を設立し、1906年には札幌麦酒とともに、ヱビスビールを製造販売する日本麦酒醸造とアサヒビールを製造販売する大阪麦酒が合併して大日本麦酒となるなど、サッポロビールとビール業界の合従連衡の歴史を辿ることができる。

戦時統制下の1943年にビールの商標が禁止され、「サッポロ」のブランドは一時消滅している。1949年に大日本麦酒が朝日麦酒と日本麦酒に分割された際、日本麦酒は「ニッポンビール」のブランドを採用し、その時期、愛飲家からサッポロビールの復活を望む声が高まった。

そこで、1956年にまず北海道で「サッポロ」ブランドが復活、1957年から全国でサッポロビールを発売した。そして、1964年に「サッポロビール株式会社」と改称してサッポロビールの商標が再び復活した。その歴史はまさに、「サッポロ」ブランドの一大復活劇である。

1970年代初め、多くのサラリーマンが三船敏郎よろしく「男は黙ってサッポロビール」を愛飲した。今日では「男は」となると、たとえCM(コマーシャル)では無声でも問題になるのかもしれない。だが、今なら新型コロナ禍、女も男も一緒に黙って、限定の「復刻札幌製麦酒」を嗜むことができる、サッポロビール博物館はそんな施設である。

文:菱田秀則(ライター)