義は、古くさい考えでしょうか。古くさい義の捉え方では、いまを生きる私たちにはピンと来ないのも仕方がないことです。
それでいて、義は仁の中に含まれていると考えられているので、仁=ビジョン・ミッションとすれば、義もまた、ビジョン・ミッションの違う側面なのです。
どんなに優れたビジョン・ミッションだと自分で思っていても、現実としては抗いようのないことも存在していますし、人としてこの世で許されている行動の範囲もあるので、それを超えることは許されません。あえて超えていこうとすれば、対立が起こります。それを乗り越えて、仁を実現していかなければなりません。
たとえば、古い仁義の世界にある人たちがいたとして、どれほど過去の意味での仁義を重んじても、現在の法律では反社会集団であることそのものが違法です。社会から否定されるわけで、反社会の人たちと仕事をすることもダメなのです。
「彼らは犯罪者かもしれないが、いい人なんです。仁義があるんです」と主張したところで、ビジネスはできません。
仁はその人が行くべき道を示しています。義は社会(この世界)が進むべき道を示しています。これが合致していることが望ましいのです。
現実には、必ずしもみなさんの仁が、義とうまく折り合えているとは限らないでしょう。仁は義とともにあってはじめて役立つので、自分のミッションやビジョンを、社会に受け入れられるようにする努力が求められます。
この点で、いわゆるコンプライアンスは狭い意味では、現代の義です。でも、義はもう少し広い。人それぞれの立場で義があるとすれば、関係している人たちの義のあり方をよく知って、できるだけそこにふさわしいように調整していくことも求められるのです。
その意味で、義を「正義」としてしまうと、私は少しばかり具合が悪いと思います。義にも正義の意味は含まれていますが、そこに「正」を追加することで、あたかも世界には唯一絶対の正しい道があるかのように強調されてしまいます。
ある人の正義は、別の人にとっては不正義になるこの時代、自分たちの正義を押しつけるだけでは、ビジョン・ミッションは果たせないのです。
仁は、自分の心に従って行動すること。義は、世の中の道筋に従って行動すること、と言い換えたとき、前回の「利があるときに、義を思う」ことがより具体的になってきます。
つまり、「自分にとって利益になる」ことを前にしたときこそ、「果たしてその利益を得ることに義はあるのだろうか?」と考えてほしいと孔子は言うのです。一種のチェック機能です。
たとえば、親子で経営していたとして、子が画策して会社を乗っ取り、親を経営陣から放逐する、いわばクーデターを起こしたとします。
このとき、さまざまな仁と義が交錯していきます。
子の仁としては、「親の考えのまま進めば時代に乗り遅れて会社は継続できなくなる」とし、「いまの時代にふさわしい会社につくり替える」ことがミッションとなります。ですが、親子の関係で見れば、義として「親を追放するようなクーデターをする子を信用できるだろうか?」といった考えも存在することを見通しておくべきでしょう。
仁はすばらしいとしても、それによって得られる利は自己中心になっていないか。義はどこにあるのか、と考えるのです。
当然、このクーデターにも義はあります。子の側の義は「お得意さまや従業員を守るのが経営者の使命だ」と言えるからです。「ビジネスにおいては親も子もない」と言い切ってもいいし、「あくまでビジネスの問題なので、親子の縁を切るわけではない、親のことはいまも尊敬している」と表明するのもありでしょう。
でも、そのときの義は、いったいどこに存在するのでしょうか? コンプライアンスとして正しいことでも、義には反する行為もあるのではないか? こうしたケースでは、義についてより深く考えてしまうわけです。
見義不為、無勇也
義を見て為(せ)ざるは、勇なきなり。(巻第一 為政第二より)
これも、有名な孔子の言葉です。「行なうべきことを前にしながら行なわないのは、臆病者である」と訳すことができます。
この言葉が出てくる文章は、祭礼について語っているものです。人に強いられて行う祭事もあれば、義で行う祭事もある。本来祭るべきでないものを祭ることは、へつらいになる(おそらく、当時の為政者や権力者の考えに媚びることを指すのでしょう)。自分の祭るべきものを祭る勇気を持てと語っているのです。
この言葉から思うのは、仁が自分の中から出て来たミッション・ビジョンであるのに対して、義はそれ以前に、すべきことがあるだろう、と示唆しています。そこには、「私」はないのです。過去であるとか、周囲がある。過去や周囲から求められている道筋を歩むことも、疎かにはできません。それを無視することで仁も歪んでくるのです。
孔子が義を重視するなら勇気も必要と指摘しているのは、義に基づいた行動は周囲から強い反対を受ける可能性も高いからでしょう。
「いま、そんなことをすべきではない」とか「それは古い考えだ」とか「利益を重視するなら、そこは無視しましょう」といった反対意見で諫められていくような性質が「義」にはあるのです。
なによりも、義には「私」が存在しない、または中心ではないので、自分でもそれをあえて実行することに抵抗があるでしょう。
ただ、いまここにいる私たちも、過去の人たちの流れの上に立っているので、すべてが完全に自分だけで成り立っているはずはなく、そこには過去からの多くの影響が含まれているはずです。
そのとき、過去だけを重視したのでは、いまを生きる人たちの支持は得られません。でも現在の利益だけを追求したのでは、そもそも自分たちの寄って立つところを失う可能性もあります。
過去を断ち切り、新しい未来を切り拓く──。将来の希望を手に入れるためにすべきことは多く、そのときに不要になったものを切り捨てる必要もあります。M&Aでいえば、不採算になってしまった事業は廃業するか譲渡することになるのですが、そのとき、ただ不採算だからという理由だけで実行するのは、あまりにも義に欠けています。
「あのブランドを捨ててしまったなら、この店には魅力がない」と思う人も出てくるかもしれません。「これまでさんざん世話になった事業を捨てるのか?」とショックを受ける人もいるでしょう。そこを合理的な数字としての理屈だけで説明するのではなく、義を尽くすことも必要なのではないでしょうか。
このように複雑な状況で、義を考えるときに「礼智信」の役割も欠かせません。次回からは、儒教の五常「仁義礼智信」の関係を現代のビジネスに応用する道を探りましょう。
※『論語』の漢文、読み下し文は岩波文庫版・金谷治訳注に準拠しています。
文・舛本哲郎(ライター・行政書士)