ふさわしい方法で利益を得る|M&Aに効く論語4

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富や利益につきまとうプロセス

 論語には、富や利益について厳しい言葉が散見されます。紀元前の頃から人間は、もっとお金持ちになりたい、もっと利益を得たいと願って生きてきたわけで、その点では私たちとそれほど隔たりはありません。

 多くの数字を扱うM&Aにおいては、数字に強いことはとても重要です。ですが、数字に埋もれてしまっては大切なことを見失う可能性があります。単純な引き算で、少しでも安く買えば利益が出ます。少しでも高く売れば利益が出ます。ただ、数字を扱いすぎて、まず利益ありきで計算をはじめてしまうと、人と人の交渉にとっては必ずしも思惑どおりにはいかなくなる可能性が高くなります。

 こちらが利益を得ることは、相手もわかっているのです。相手が損をすればこちらの利益になることも、お互いにわかっている。その上で交渉をしなければならないのですから、そのときに利益だけ、数字だけを見ていると行き詰まってしまう可能性があります。

 富も利益も、最終的に手にしたときに実感できるもので、机上の空論ではなんの役にも立ちません。では、最終的に手に入れて満足できる富、利益とはなにか。そこを考えていこうと、孔子は言っているのです。

子の曰わく、富と貴(たっと)きとは、是れ人の欲する所なり。其の道を以てこれを得ざれば、処(お)らざるなり。貧しきと賤(いや)しきとは、是れ人の悪(にく)む所なり。其の道を以てこれを得ざれば、去らざるなり。君子、仁を去りて悪(いず)くにか名を成さん。君子は食を終うるの間も仁に違(たが)うこと無し。造次(ぞうじ)にも必ず是(ここ)に於いてし、顚沛(てんぱい)にも必らず是に於いてす。(巻第二、里仁第四)

 孔子は、こう言ったそうです。

「富や地位は、誰でも欲しがる。だが、それにふさわしい方法で得なければ、富や地位を保てない。貧乏や低い地位は、誰もが嫌がる。だが、ふさわしい方法でそうなっているのなら、そのことを無視してはいけない。人としての理想を考えれば、仁を捨てて名を成すことはあり得ない。食事を終える間にも仁を忘れることはなく、事態が急変しても、つまづいてしまったときも、仁を忘れたり無視することはない」

 渋沢栄一著『論語と算盤』では、この言葉について「富貴を賤しんだところは、一つもない」と指摘。当時も、孔子のこの言葉から富や地位を否定するような解釈が一般的だったことがうかがえます。そして渋沢翁は、「道理を踏んで得たる富貴ならば、あえて差し支えないとの意」と断じています。 

正しい動機とそれにふさわしい方法を探ること

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「ふさわしい方法」として孔子が想定しているのは、仁に基づいたプロセスです。渋沢翁の「道理」もそこに含まれます。前回、この連載では、仁を「なぜ」つまり動機とし、そこから派生してビジョンやミッションに通じていると解釈しました。では、なぜ富が必要なのか。なぜ利益が必要なのか。「そんなもの、誰だって欲しいに決まってる」で、すませていないかと問うているのです。おもしろいのは、富も貧乏も、ふさわしい方法でそうなっている場合には、その点をよく考えてほしいと孔子は考えている点です。

 ふさわしい方法──。自分で選んだやり方が正しければ、富を得られる。間違っていれば貧乏になる、と言っているのではありません。自分で選んだ正しいやり方でも、もしかすると貧乏になっていくこともあるのです。

 自分としては正しいと思ったことを貫いた結果、富を得られずに貧乏でいる場合もあります。仁があれば必ず富むわけではありません。ですが、人間力としては、たまたま富とは結びついていない状態だとしても、仁に基づく道理を貫いていることのほうがずっと大切だと考えています。

複雑な現代では目先を追う場面もある

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 これからM&Aを進めていくときに注意すべきことを。孔子は示唆してくれています。

 正しい動機を持ち、それにふさわしい方法を探った結果、儲からない決断もあり得る。むしろマイナスになってしまう可能性もあります。

「われわれとして正しいと思える判断をした結果、損失が出ました」とは、いまの時代にはなかなか言いにくいことでしょう。ですが、そこに仁があれば、堂々とその道を選んでいいのです。

 なぜなら、もしここで利益を優先して、仁に背くやり方を選んだとしても、「其の道を以てこれを得ざれば、処(お)らざるなり」。つまり、そのような利益は、保持することのできないものだからです。

 これは、現代の私たちにとってはとても高度な決断になりますが、自身(自社)の守るベきもの(仁)を通すことが大事か、目先の利益が大事か、といった話にもなってくるでしょう。長い目で見れば、当然、前者。守るべきものを投げ打ってまで得た利益にどんな意味があるのか、という話になるはずです。

 必ずそうなる、とは言い切れないのがいまの時代の複雑さです。さすがに孔子も、いまの時代の持つ速度感、多様性、複雑さまでは見通していなかったでしょうから、局面においては目先の利益が大事になる可能性も捨てきれません。

 このとき、どう決断するかは、現代の私たちに課せられているのです。あくまで、「其の道を以てこれを得ざれば、処(お)らざるなり」であることは、承知の上で。

※『論語』の漢文、読み下し文は岩波文庫版・金谷治訳注に準拠しています。

 文・舛本哲郎(ライター・行政書士)