前回に引き続き、「仁の思想」について考えてみましょう。
仁とは何か。今風にいえば、仁にはビジョンやミッションが含まれる。そう感じた理由には、論語のなかに次のような言葉があるからです。
知及之、仁不能守之、雖得之必失之
知はこれに及べども仁これを守ること能(あた)わざれば、これを得ると雖(いえ)ども必らずこれを失う(巻第八 衛霊公第十五より)
この言葉はまだ続きがあるのですが、今回は割愛します。この言葉から、孔子は、仁を中心に、知識、荘(おごそか、威厳)、礼儀といった要素が合わさって、はじめて多くの人を納得させ行動させることができると考えていたのではないかと推察できます。
五常「仁、義、礼、智、信」は、並列ではなく、仁は核となる考え、「なぜ」であり「愛」であり、「義、礼、智、信」の中心にあって徳を実現するために、相互に作用しているシステムなのではないでしょうか。
生き残ること、人々を掌握すること、そして勝利すること、勝利したのち平和を維持し、あるいは勝利し続け繁栄し続けるためには、仁を核とし、義・礼・智・信という要素を上手に組み合わせることができなければムリだと説いているように思えます。これは、「目的のためには手段を選ばない」「どんな手段でも、結果として利益を増進させるなら許される」といったマキャベリズムの一般的な捉え方を超えた思想ということができます。
では、核を仁(ビジョン・ミッション)に置いたマキャベリズムは成立するのか。その立場に立つと、「仁に適うことであれば、なにをやってもいい」となりがちですが、そうしたマキャベリズム的な思想を礼や義・智・信でカバーしていくこと、同時に仁や智や礼や義や信はそれぞれ相互に関連していき、全体のバランスが重要になっていくことが大切であることを示唆しているのです。
仁の核になるのは「なぜ」を問う愛の心です。なぜ自分はそれを行うのか。その問いを突き詰めることでビジョンやミッションが生まれ、そのビジョンやミッションは「なぜ」を問い続ける愛の心に裏打ちされていくのでしょう。
M&Aで考えれば、「なぜ売却するのか?」「なぜ買収するのか?」、その本質にマキャベリズムや功利主義を超えた「仁の思想」があることが望ましいのではないだろうか。仁を核に据えて礼・義・智・信のバランスのとれたエンジンを動かすことが、プロセスを歪みなく進ませる最大のポイントとなり、人々を動かす力になると考えることができます。
むずかしく考える必要はありません。人は、「なぜ」を明確にできないうちは動かない。「なぜ」を明確にできないビジョンやミッションは、多くの人を動かす力にはならないのです。
前回も少し触れた、有名な論語の言葉に戻りましょう。
巧言令色、鮮矣仁
「巧言令色鮮(すくな)し仁」という言葉があります。論語の冒頭、巻第一学而第一にある有名な言葉であり、「口先だけ、うわべだけのよさが目立つ人は、仁が少ない」ということです。
この「仁」とはなんでしょう。「巧言」は相手が気に入るであろうと考え抜かれた言葉。つまりセールストークでありキャッチフレーズです。「令色」は相手に好まれるように愛想よく見せる表情や顔色。つまりビジュアルです。見た目ですね。
見た目は大事です。わかりやすい言葉で語ることも大事です。一般的には「見た目のいい人、耳に心地よいことをいう人は、心ない人かもしれないので気をつけて」といった警句として知られています。「本質を見抜け」ということです。
ここで私がもっとも重要だと思うのは「すくなし仁」です。巧言令色は「仁ではない」と断定してはいない点です。
義や礼を考えれば、むしろ相手にわかりやすい言葉を選び、相手が喜ぶであろうポイントを説明し、礼儀をわきまえて気に入られるような見せ方をすることは、とても重要なことなのです。これも一種の戦い方、折衝のコツです。
ただ、それだけではダメなのは、すでにみなさんもおわかりですね。仁がしっかりとあっての「HOW」や「WHAT」なのです。
「外に向かう言葉だけをどんなに鍛えたところで、言葉の巧みさを得ることはできるかもしれないが、言葉の重さや深さを得ることはできない」(『「言葉にできる」は武器になる。』梅田悟司 著)
これは著名なコピーライターの言葉です。仁には、こうした本質が含まれていると考えれば、古くさい道徳教育の殻から突き抜けることができ、いまを生きる私たちにも響くのではないでしょうか。
ちなみに、春秋戦国時代は、中国思想としても百花繚乱の時代でした。「諸子百家」と呼ばれ、多数の思想家が誕生しました。つまり、この時期に力を持っていた思想家は孔子以外にもいっぱいいたのです。
簡単にいえば、誰もが力でのし上がれる時代なので、そのバックボーンとして優れた思想家を従えて、武力だけではなく考え方としても敵を凌駕する必要があり、同時にこの間まで敵対していたかもしれない人々までをも納得させなければならなかったのです。
その中で道徳を重んじる発想の孔子たちは「儒教」(儒家)として知られ、前回紹介したマンガ『キングダム』の主要舞台である秦国では、法家、つまり法で秩序を守る発想を選択ました。法家の思想家では韓非子が有名です。
徳を重んじて政治をするのか、法を重んじて政治をするのか、といった対立が生まれますが、のちの世では今に続くように、法治国家が世界の主流となったので法家の勝利とも言えます。それでも、儒家が葬られたわけではなく、心の部分として綿々と生き続けているわけです。いまも私たちの法律は、徳を法制度として飲み込んでいる面もあります。
よくよく考えれば、私たちの生活を考えると、法と徳は対立する思想ではなく共存するものでしょう。
論語の思想で経営したら破産してしまう、と怯える必要はありませんし、古くさい道徳として無視する必要もありません。徳も法も人々の営みを別の角度から冷静に見抜いた結果、考え出された思想であり、私たちは人としていまもなお、古代中国の思想家が透徹した姿からほとんど変わっていないのです。
M&Aの現場では、「なにを残し、なにを諦めるか」といった選択を迫られることもあるでしょう。そのとき「仁」を核として考えれば、「このM&Aの目的はなにか」が重視されますし、本質をしっかり見極めて巧言令色ばかりに走らないことが大切ということになります。
※『論語』の漢文、読み下し文は岩波文庫版・金谷治訳注に準拠しています。
文:舛本哲郎(ライター・行政書士)