前回までに、仁/義を実行するために「礼」があり、行動を決定づけるのが「信」であり、いずれも学問によってアップ・トゥ・デートしていかなければならないという話をしました。これを、企業の活動で考えてみましょう。
たとえば「国産の原料しか使わない」と決めたとき、気候変動や災害によってたまたまその年は国産の原料が揃わなかったとします。仁として国産にこだわることは正しいのかもしれませんが、そもそも生産ができない、製品が作れないのでは本末転倒です。
この事態で、ただ呆然としてなにもしない経営は完全にアウトでしょう。いわゆる思考停止状態です。仁(ミッション/ビジョン)を思考停止の理由にするのはおかしいですよね。むしろ、仁に基づいて思考を促進していかなければなりません。
そもそも「国産の原料しか使わない」のどこが仁なのか。具体的な行動を示しているので、義(ウェイ)を含んでいます。ここで学問が必要になります。学ぶことです。
これにより、本来あるはずの「仁」は「国産の原料しか使わない」といったことではなく、「自国の繁栄とともに成長する」ことであったのかもしれず、また、義としては「安心・安全な原料しか使わない」ことにあったのかもしれないことに気づくかもしれません。
こうして考えれば、自分たちの根本的な考えを根底から覆すのではなく、むしろより核心に近づくはずです。
その結果、国産原料を復活させるための活動を進めつつ、世界各国で同じように「安心・安全」な原料はないか探し、まったく同じものではないにせよ、国際仕様の新製品を提供する、といった方向が考えられます。このように、自分たちの「ミッション/ビジョン」に沿っているかチェックしながら、思考停止に陥らないように進めていくことが大事なのです。
思考停止を突破する、学問によってアップ・トゥ・デートしていくには、私たちはどうあるべきでしょう。
子貢問曰、郷人皆好之何如。子曰、未可也。郷人皆悪之何如。子曰、未可也。不如郷人之善者好之、其不善者悪之也。(巻第七 子路第十三24)
子貢(しこう)問いて曰わく、郷人(きょうじん)皆なこれを好(よみ)せば何如(いかん)。子の曰わく、未だ可ならざるなり。郷人皆なこれを悪(にく)まば何如(いかん)。子の曰わく、未だ可ならざるなり。郷人の善き者はこれを好(よみ)し、其の善からざる者はこれを悪(にく)まんには如(し)かざるなり。
とくに重要なのは、「郷人の善き者はこれを好し、其の善からざる者はこれを悪(にく)まんには如かざるなり」という部分でしょう。「郷」は土地とか地域の意味でしょうが、このまま「企業」など集団として考えてもいいでしょう。
弟子の子貢は、孔門十哲の一人です。思いきり私なりに訳すと、弟子の子貢から、「会社の社員たちに人気のあるリーダーはどうでしょう」と尋ねられた孔子は「人気があるだけじゃダメだな」と。「では、社員から憎まれている人はどうでしょう」というので「もちろんダメ」とし、「善人というだけでもダメだし、悪人もダメ。社内の優れた社員たちが認めている人で、しかも社内でよくない人たちからは憎まれているような人が望ましい」というわけです。
論語での直前の言葉を見ておきましょう
子曰、君子和而不同、小人同而不和
(巻第七 子路第十三23)
子の曰わく、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず
リーダーとして、仲間にはなるが、なんでも同意するような存在にはならない。つまり、集団に属するとはいえ、自分の意見を持つことが大事なのだとしています。だから、誰にもほめられるだけの善人ではダメで、悪い人からは憎まれているぐらいでなければ……となるのです。それだけ自分の考えを持て、ということでしょう。
さらに、孔子はこうも言っています。
子曰、郷原徳之賊也、
(巻第九 陽貨第十七13)
子の曰わく、郷原は徳の賊なり
その会社で「いい人」と呼ばれている人は、その人が会社の良さそのものに見えてしまうため、かえって社内の本来持つべきいい面を損なう、と私は訳します。
孔子は、「善人」をとくに欠点はないものの、取り柄もなく、流されていくだけの人物と見ていて、目指すべき人間像とは考えていませんので、ただ善人という存在にはかなり厳しいのです。
このことから、孔子の考えるリーダー(君子)としての言動は、信念である「仁/義」を含めて、常に学問によってアップ・トゥ・デートし、それを断行していく人だと考えることができます。
封建社会では、トップが絶対であり、家長である父親が絶対だとされていて、しかも過去に築かれたこと(祖先が積み上げたもの)を重視するため、時代による変化は許されませんでした。これが閉塞的な社会を生み、硬直した思考から多くの人たちを犠牲にするような間違った判断にまで至り、それを止める者もいなかったのです。
滅びの美学というか、義に殉じて死んで行くような世界ではあるのですが、智(知)、信、礼が学問によって常に変化していくものだとすれば、「仁/義」の根本は変わらなくても、行動は変化していくはずですし、この変化は恐れてはならず、むしろ歓迎すべきなのです。
かつての日本(江戸時代、明治時代から太平洋戦争まで)では常識だったことが、現代では必ずしも常識ではありません。
国際紛争を戦争で解決するのではなく、交渉や協議によって解決していく、または小規模の戦闘で収めようとする。性差を当然とするのではなく、誰にとっても働きやすく生きやすい社会にしていこうとする。このような考えから、政府が率先してLGBTなどマイノリティに目を向けることが当然となってきているなど、時代は刻々と変化し、それによって、信や礼のあり方も変化します。
変化は正直、気持ち的にシンドイですし面倒です。いろいろな犠牲を伴うものですが、学問によって裏打ちされた変化は、むしろ犠牲を最小にできるはずで、そういう道を選択することがよりよい未来につながっているのです。
※『論語』の漢文、読み下し文は岩波文庫版・金谷治訳注に準拠しています。
文・舛本哲郎(ライター・行政書士)