論語を現代に生かすためには、「仁/義」を中心として「智(知)」「信」「礼」が相互作用する関係を念頭に置いて読み解くとわかりやすい。それがこの連載のたどり着いた結論です。仁は「ミッション/ビジョン」であり、義は「パーパス/ウェイ」と考えます。
前回の記事で、「智(知)」は無情であることに触れました。「智(知)」だけをメインに据えると心がついていけなくなります。それを穏やかにしたり、逆にむしろ先鋭化したりするのが「信」と「礼」の役割です。
禮以行之 信以成之
子の曰わく、君子、義以て質と為し、礼以てこれを行い、孫以てこれを出だし、信以てこれを成す。君子なるかな。
(巻第八 衛霊公第十五)
君子の言動は、義を元にして、礼で実行し、謙遜によって表現し、信によって成し遂げるのだと言うのです。孔子の中では、礼による行動、信による達成がイメージとしてあったわけです。
義は「パーパス/ウェイ」であり、それに基づく行動として「礼」があります。この「礼」は儀礼、礼儀、お礼、そして挨拶を含む礼ですが、過去と現在をつなぐプロトコル(様式)と考えてもいいでしょう。
行動については、常に過去を配慮しながら現在にふさわしいやり方をとること。いきなり誰も見聞きしたことのない突飛な行動に出ると、誤解され反発されてしまうのです。
目的達成のためにも、やり方は礼にかなったものであるべきです。礼とは古い因習にただひたすら真似ることではありません。真心をもって過去のやり方を踏まえて、いま必要な行動に出ることです。
「おはようございます」と挨拶する行為だけでも、そこに古いとか新しいとかはありませんが、職場や客先で、現代の意味を持って行われることは間違いありません。だからこそ「挨拶をしよう」と多くのビジネス書に書かれているのです。さらに「ありがとう」とお礼の言葉を添えることも重要とする声は多いでしょう。こうした礼は、みなさんの仁/義を実行するためには欠かせないのです。
朝礼もありますし、葬儀などのような儀式、式典も含まれます。いずれも、過去のやり方に習いながら、いまの私たちにとって意味を持ち、いまにふさわしい礼へと変わってきています。
プロトコルとして考えれば、会議の進行、仕事の上の手続きや手順なども行動様式の一つですが、やはり過去のやり方を踏まえて行うものであり、まったく異なるやり方をいきなりやってしまうと、そこに義があったとしても多くの人の賛同を得られない可能性が出てきます。
国際性を考えたときには、プロトコルは重要性を増します。礼を欠いた行動は、その時点で交渉を失敗させてしまう恐れがあるのです。相手にとっての礼を学んでおかなければ取り返しのつかない失敗をしてしまうことでしょう。
そしてこの行動を最終的に決定づけるのは「信」です。
信は、「嘘をつかず約束を守る」こと(『論語』岩波文庫版・金谷治訳注。巻第一 学而第一 十三の注より)。
さて、みなさんは、「嘘」を学んだことはありますか?
「嘘つきはいけない」「正直に生きよう」と言うのは簡単ですが、私たち人間は嘘をつきます。嘘をつくものなのです。嘘をただ「いけないこと」としてしまえば、嘘を学ぶことはできず、私たちはいつまでたっても衝動的に嘘をついてしまうことから逃れられないでしょう。
嘘には、大きく2つの意味があります。1つは事実ではない言動のこと。もう1つは相手を騙すための言動です。前者は無知や勘違いによっても起こりますが、後者は意図的です。
嘘をつかないためには、自分の言動が嘘にならないように考えをきちんと整理しておくことが含まれます。どうなったら嘘になってしまうのか、わかっていなければ嘘を回避できません。
嘘を知らなければ、信は得られないのです。この点で「私は一度も嘘をついたことはない」と言い切ってしまうとパラドックスに陥ることになります。むしろ「私は嘘をついている」と言うほうが正直さの証でしょう。
では、嘘をつかない正直さがあれば信は成立するでしょうか? 相手はあなたの正直さに感動して、高い信のある人と評価するでしょうか?
嘘をつかないことと、正直であることは違います。「バカ正直」という言葉があるように、ただひたすら正直なだけでは、社会はうまく回っていかないからです。かといって嘘もつきたくない。では、どうするか。それが「信」なのです。
信はただ嘘をつかない、正直である、といったナイーブなものではありません。より戦略的、戦術的に築くものです。それを援護するのが、「智(知)」ですし、さまざまな情報を集めて分析して自分のものにしていく活動、つまり学問にあるのです。
子曰(略)好仁不好學、其蔽也愚、好知不好學、其蔽也蕩、好信不好學、其蔽也賊(以下略)
子曰わく(略)仁を好みて学を好まざれば、其の蔽や愚。知を好みて学を好まざれば、其の蔽や蕩(とう)。信を好みて学を好まざれば、其の蔽や賊(ぞく)。(以下略)
(巻第九 陽貨第十七)
この言葉が指摘しているのは次のようなことでしょう。
・仁だけを重視して学問をないがしろにすると、愚かな決断をしてしまう
・知だけを重視して学問をないがしろにすると、ブレブレになってしまう
・信だけを重視して学問をないがしろにすると、人として間違った道へ迷い込む
孔子のこの言葉には、続けて直、勇、剛についても、学問をないがしろにすると誤った方向へ行ってしまうことを戒めています。
仁は、正しい道を示してくれるはずの根本的な考え、信念といってもいいのですが、これに固執すると愚かな決断になりやすいことは歴史が証明しています。仁に根ざした行動をしなければ、人として生きて行く価値はないとしても、その行動は人間であるからこそ選択可能であるはずで、その選択はその人の責任においてなされるのです。運命論的に、仁のせいにすることはできません。
仁/義に基づいてビジネスすることは、硬直した思考でただひたすら突き進むことではありません。むしろより柔軟に、常に学びながら広い視野と複数の選択肢を持ってビジネスを進めていくことなのです。
※『論語』の漢文、読み下し文は岩波文庫版・金谷治訳注に準拠しています。
文・舛本哲郎(ライター・行政書士)