大阪取引所 先物取引文化を継承する「北浜の顔」|産業遺産のM&A

alt
商都のシンボルである大阪取引所

「証券取引所」というと、馴染みのない人にはとかく損得・浮き沈みの激しい証券業界のなかにあって株式投資、株式の売買を行う“公の機関(場)”と思われるかもしれない。だが、実は株式会社であり、証券取引所そのものが急成長することもあれば倒産する可能性もある民間組織である。

起死回生の統合劇

証券の街といえば、東京の兜町に対し、大阪は北浜。その北浜を象徴する大阪証券取引所(大証)は法人としては概ね2代に大別できる。初代が2013年1 月1日まで、2代目が2013年1月1日以降である。正確にいうと、初代の商号は証券会員制法人と株式会社の大阪証券取引所であり、2代目の商号は新大証設立準備株式会社を経て株式会社大阪証券取引所、株式会社大阪取引所となった。

現在は建物正面に「大阪取引所」と看板を掲げている。

初代と2代の境目である2013年1月。それまで独立して株式の現物市場やデリバティブ(金融派生商品)市場を運営していた東京証券取引所と大阪証券取引所が経営統合し、日本取引所グループ(JPX)が発足した。バブル崩壊から10年余り。当時の日本経済は「失われた10年」と言われ、株式市場も低迷を余儀なくされ、投資家の日本株離れが進んでいた。世界的な株式市場として魅力をどう取り戻すのか。その起死回生策が東西の証券取引所の統合だったのだ。

起源は江戸時代の米取引場

大阪取引所の起源は江戸時代にある。当時、大阪の中之島・堂島・北浜界隈は大阪経済の中心街であり、諸藩の蔵屋敷が並んでいた。その蔵屋敷で流通していた米などの取引を行う米穀取引所が起源とされる。

1730年には米穀取引所の流れをくむ堂島米会所がつくられた。堂島米会所では、正米取引と帳合米取引が行われていた。正米取引とは現実にあるお米をそのとき決めた値段で取引する、いわば現物取引。

一方の帳合米取引とは実際には現物である米の受け渡しをせず、帳簿上で売買することである。米の先物取引ということができる。

この帳合米取引では敷銀という証拠金を積んで、差金の決済による先物取引ができた。その先物取引市場を世界で初めて整備したのが現在の大阪取引所の前身である堂島米会所だったとされる。堂島米会所があった敷地には、現在、堂島米市場跡の記念碑が建っている。

明治維新後、大阪経済の再生と近代化をリードした五代友厚らが発起人となり、1878(明治11)年に大阪株式取引所が創設された。しかし、その後の道のりは決して平坦ではなかった。第2次大戦期の1943年には戦時統制機関の改編を受け、日本証券取引所に統合され大阪株式取引所は解散、日本証券取引所の大阪支所という扱いになっている。

戦後、日本証券取引所が解散し、大阪証券取引所は独立して事業を再開することになった。特に指数先物・オプション市場で重要な地位を占めるようになる。指数先物の取引シェアは圧倒的で、デリバティブ取引の売買高も日本の取引所のなかではトップだった。

だが、株式市場においては株式の電子化が進むにつれて、証券取引所としての地位は東証に大きく水をあけられていく。そして2013年の経営統合を迎えた。大阪取引所はデリバティブの専門取引所になった。

“東の渋沢、西の五代”、商都大阪を象徴する建造物

正面に建つ五代友厚の立像

現在の大阪取引所のビルの名称は変わらず大阪証券取引所ビルである。完成は2004年12月。建築主・所有者は「兜町の大家」といわれた平和不動産。

2002年5月のビル新築の着工時に、平和不動産は新生・北浜の起爆剤となるべく、シンボル性を持たせるため、低層部は商都大阪の中心・北浜の顔として長く市民に親しまれてきた 旧大阪証券ビル市場館の外観および内部の一部を保存して昭和初期の貴重な建築物を継承、 石貼りの重厚なデザインとする、と発表していた。北浜の顔を文化遺産として継承する強い意気込みを感じさせる。

確かに正面下層階の外観は1935年(昭和10)に建てられた歴史的建造物ともいえる旧大阪証券ビル市場館を生かした造りで、円筒形の壮大な外観とエントランス・ホールが特徴である。

正面エントランスの前には大阪取引所の創設者、五代友厚の立像がいかにも颯爽と風を切るように立っている。商都大阪の水先案内人のようでもあり、明治期の資本主義経済の成長を支えた“東の渋沢、西の五代”といわんばかりの威容を誇る。

エントランスを入ると、大型のモニターに同社の“看板商品”である日経225など先物取引の価格が映し出されていた。ただ、東証と同様だが、内部は往年の場立ちの面影はなく、静かな活気に包まれている。

文:菱田秀則(ライター)