「上底の教養がオーバーフローしている」と呼ばれた私が“変化と対応‘‘の末につかんだ知恵——ワプル会長・神山光司氏

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ワプルの神山光司会長

会社人生で何度も直面した、組織との対立、そして左遷。最後に辿り着いたのが、建物の防水工事を手がける「ワプル」だった。入社後、神山光司氏は経営を引き継ぎ、社長として同社を牽引。2026年10月1日には会長へ就任した。今でこそ年商100億円を目標に掲げるワプルだが、神山氏が参画した当時はわずか4人の小さな組織。約20年で社員を75人抱えるまでになった成長の裏には、苦境を糧に神山氏が築き上げてきた「人との繋がり」があった。神山氏の足跡を紐解き、未来を照らす「生きた知恵」に迫る。

原点はガキ大将、裏方の人達の教え

―会社人生での転換点について教えてください。

私は幼少期の頃はガキ大将で、毎朝登校前に仲間が集まってきて遊ぶのですが、その日の人数によって色んな遊びを考え、楽しんでから学校に行っていました。学生時代に打ち込んだバスケットボールは中学2年の春から始めました。練習場所がなくなり野球部を退部して、一番厳しいバスケットボール部に入部。苦しいけれど楽しくて、朝晩バスケットボール漬けの日々でした。約半年で2年生と同じレベルの技術を習得し、レギュラーに定着してからは、コートで相手を掻き回していました。

そんな私が高校卒業後、建築・土木材料メーカーの昭和石油アスファルト(当時)へ入社し、社会人として歩むことになりました。研究所に配属され、最初は助手でした。社会経験なく上下関係も知らず、知ったかぶりをしているような私に、先輩たちから「上底の教養がオーバーフローしているな」とよく評されました。そう言われるたびに、いろいろと学ぼうという気持ちになったことを今でも覚えています。

助手の仕事といえば、先輩が使用した道具・器具等の洗浄作業や片付けばかりでした。実はその経験が人生観を大きく変えたのです。部活に打ち込んでいた日々とは打って変わり、助手という立場になって気づきました。「自分がスタメンで活躍できたのは、目立たない場所でチームを支えてくれたベンチウォーマー達がいたからなんだ」と。そのときに、陰で支えてくれる人達を大切にしていこうと心に決めたのです。

そうした気づきを得ながら実験を繰り返し、防水性能が高く耐久性のある「改質アスファルト」の開発(50年以上前)ができました。今では改質アスファルト防水が主流になってきていますが、私からすれば本当にたまたま、運よく偶然にできあがっただけなのですが……。

「変化」と「対応」、現場で学んだ絆

―開発成功後も、現場での業務改革や営業として多忙を極めたそうですね。

開発した改質アスファルトの試作や品質管理(JIS認定取得)のため工場へ長期出張した際、私は生産管理の改善にも取り組みました。コスト削減のため労働組合へ作業方法や規定の変更を提案したものの、最初は受け入れられませんでした。

ですが諦めず、現場に入って根気よく一緒に作業を続けることで互いの考えのズレが解け、早出などに協力してもらえるようになったのです。

また、生産効率を上げるため、約100品目あった製品から主要20品目を絞り込んで計画生産・ストック化し、残りは受注製造やOEMへ切り替えました。加えて、木製パレットを鉄製に変えて保管効率を高め、運送会社の倉庫も活用して連続製造できる体制を整えた結果、工場の生産性を2倍に引き上げることができました。

その後は販売促進課へ異動し、カタログ制作、標準仕様書及び販促製品等の調達、各特約店の技術的フォロー・新規特約店の開拓(北海道・東北地区)を担当しました。研究所時代は容器と睨めっこしていた私が顧客へのアピールポイントの作成や折衝など、何から手を付けたらいいのかわからない状態でしたが、逃げずに取り組みました。ひと月で北海道から九州まで日本全国を走り回り、当時は新婚でしたが、羽田空港に着替えを持ってきてもらい、妻の顔を見るなり次の飛行機に乗るような凄まじい生活でした。

30代半ばで新潟営業所長に抜擢されると、営業叩き上げの各営業所長から「金計算もしたことのない研究所あがりなんて、すぐにダメになる」とバッシングを受けましたが、「なにくそ、負けるもんか」という気持ちで3年間務め、売上を倍増させました。その後、転勤の命を受け大阪営業所長と決まっていたのですが、社長の一声で東京営業所長に変更となり、江戸っ子育ちの私が東京に戻れることになったのです。ですが、私より年上が7割で老練な人達ばかりでしたので、気を使いましたね。

東京での勤務も3年目になって「もう転勤もないだろう」と家を建て直してすぐ、会社役員と意見が対立してしまい、翌年4月に大阪営業所への転勤(左遷)となりました。売り上げは上がりましたよ。

赴任先の大阪では、言葉の壁(江戸弁)や商習慣の違いにぶつかり、最初の1年半でノイローゼになるほど悩みました。これまでのやり方が何一つ通用しませんでした。標準語は大阪の人達には早口で怒っているように聞こえるようで、コミュニケーションを阻害していたのです。「郷に入っては郷に従え」の言葉通り、慣れない大阪弁をゆっくりと話すようにしてから、霧が晴れたような陽気な環境になりました。

大阪で学んだのが商売の本質です。商売の本質は人間同士の付き合い。相手から少しずつ信頼を得ていくと、「お前だから買うんだ」と言ってもらえるようになる。大阪での7年間は公私ともに「人と人のつながりの深さ」を心に刻み込んでくれました。大阪でお付き合いした人達には感謝していますし、今の自分の原点はあの7年間にあります。

大阪で「人とのつながりの深さ」を刻み込んだと話す神山氏

46歳と58歳からの再出発 施工業者での泥臭い修業 

―その後、転職されて施工業者へ移られてからも苦難が続いたとか。 

家庭の事情で退職し、施工業者に入社しました。メーカーで材料を売っていた立場から、建築会社に営業をかけて工事を取得する仕事への切り替えです。 入社したものの、どう営業すればよいのか誰も教えてくれません。

そんな私がまずやったのは、会社案内のカタログを持っての現場への飛び込み営業。ですが、建設現場の商習慣では仮囲いが掛かる頃には業者選定が終わっているのですね。1年近く徒労に終わる仕事を続けていました。 

勘所をつかむと少しずつ防水工事を受注できるようになり、防水以外の工事がたくさんあることに気づきました。当社でできないものかと、止水工事・躯体補修工事・グラウト注入工事ほか、たくさんの施工技術を専門の職人から教えてもらいました。

段々と成果が出始めた頃、経済情勢が不安定になり、取引先の中堅建設会社が倒産し始めました。社長から「大手建設会社に移行しろ」と言われ、取引先を見直さざるを得なくなりました。当時、防水事業部は大手との付き合いは5%程度。そこから徐々に受注を増やし、売り上げを落とさず、3年後には大手が95%を占めるまでになりました。

シーリング工事で大手建設会社とつながりを持っていたこと、現場で起きた不具合への迅速な対応を心掛けたこと、そして、へこたれずに部下もついてきてくれたおかげだと思います。 

そうして乗り切ると今度は、ある役員から「会社の名前で仕事が取れているのだろう」と心無い言葉を投げかけられる始末。部下の努力や実績を無視した会社に反発しましたよ。

対立の結果、別事業部へと配置換えとなりました。 腐らず売上に貢献しましたが、2年後に会社を去ることになります。この時、定年前の58歳です。「次の会社に行くとしたら上司が権力主義の会社だけは避けたい」と思い、当時従業員4名しかいなかったワプルを選んだんです。

黒字倒産の危機を乗り越え、75人の組織へ

―ワプル参画後、トップとして組織を牽引していく中での葛藤は何でしたか。

当時のワプルは年商2億程度の小さな会社でした。大手建設会社との取引はなかったのですが、これまで仕事で付き合いのあった大手建設会社の部長や所長が「神山という人間を信用している」と言って仕事を出してくれたのです。部下や顧客を大切にしてきたことが報われたのと同時に、自分がやってきたことが間違っていなかったと確信しました。

数年で売上は10数億へと急増しましたが、今度は資金繰りの問題が発生。仕入れや職人への支払いが膨れ、ひと月で約1億円の支払いが必要となってきたのです。当時のオーナー社長から社長をやってくれと言われていましたが、転職時に妻から「失敗したら家も家財もすべて取りあげられてしまう。絶対、社長だけはやってくれるな」と言われていたので、頑なに断っていました。ですが「神山が社長をやらなければ会社を潰す」とオーナーから迫られ、妻には黙って引き受けることにしたのです。結局、社長になったことがバレてしまい、妻とは疎遠になった時期もあります。今は幸せです。

社長就任後、オーナーの指示で銀行へ融資を頼みに行ったら、「雇われマダムではお金を貸せません」と言われ、株式を取得し代表権を引き継ぐことになりました。この時初めて、売上だけでなく資金繰りと経営の本当の難しさを学んだのです。

社長になってからは、今までの経験をもとに上から無理に押し付けるのではなく「社員からの意見等は聞いて、絶対に否定しないで具体化していく」「質問や困っている部分のネックをどう取り除いていくかをお互いに検討していく」という姿勢で組織づくりを進めてきました。新しい事業をしたいなら「まずやってみましょう」と背中を押し、事前計画を立て実行していく。そうして社員自ら自走し、仕事をしてきた結果、75人に上る組織へと成長できたのだと思います。

次世代を照らす「生きた知恵」

―長年第一線で活躍され、秋に退任を控えられています。次世代のリーダーへ伝えたいことは何でしょうか。

私は今年で78歳になり、この秋に経営のバトンを息子(現・専務)へ引き継ぎます。これからの時代を担うリーダーに絶対に伝えたいことは3つです。

1つ目は、「地位や権力を振りかざさず、社員と同じ目線で話をすること」。 人間、上に立つとつい威張りたくなるものです。しかし、それでは人は付いてきません。自分を支えてくれる社員と同じ目線に立ち、耳を傾けることが何より大切です。

2つ目は、「すぐに自分の意見で結論を出さず、相手に答えを出させるように導くこと」。 私は若い頃、すぐ結論を出してしまうため、周りの人達はしらけた状態になってしまうことが多かったです。そんな私に恩師はこう諭してくれたのです。「カミソリは紙を綺麗に切れるが大木は切れないぞ。斧は紙を綺麗に切れないかもしれないが、大きな木は倒せる。お前は大きな木を倒せる『斧』になれ」と。リーダーがすぐに正論で答えを出してしまうと、周りはしらけ、自ら考えることをやめてしまいます。相手が自ら気づき、答えに辿り着けるように知恵を貸して導く。そうして大きな木を倒す『斧』となる組織が出来上がっていくのです。

3つ目は、「嫌な仕事、難しい仕事、わからない仕事は率先して動くこと」。 自ら覚えて習得できたら、それを社員に教えていく。そうすることで社員との信頼関係もでき、安心して新しい仕事に取り組んでもらえるよう方向付けをするのです。

自分が経験した嫌なことを仲間には味わってほしくないので、感謝の気持ちを忘れずに仲間を大切に次の世代に引き継いで、社長という立場を離れても後進に伝え続けていきたいと思っています。最後に人生は「楽しかった!」と言って終わりたいですね。

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